39 -Athrun-

ミゲルについて昔から俺が理解に苦しむのは、彼が自ら望んで俺という荷物を背負いこんでいることだ。
ある時点からずっと、俺はミゲルの世界の中心になり、そのポジションは何があっても揺るがなかった。

彼がうちに連れてこられたとき俺は10歳で、学校には行かず、一日のほとんどの時間を大人と過ごしていた。2つ歳上で、普通の学校へ通い、しかも人気者だったミゲルとは生活リズムも性格も全く違っていた。充実した日々の中で俺のことなんかすぐ忘れそうなものだが、ミゲルは父親の言い付けを守り、三日と開けずに顔を出した。俺がいつもひとりで食事をしているのを知ると、彼は週の半分はうちで食べていくようになった。俺の偏食と少食に困っていたコックのミス・ランカスターは大喜びで、彼が来たときのためにお茶の時間の焼き菓子を何種類も用意していた。彼はそのころから同世代だけでなく大人にもモテた。12歳にしては体が大きくて16歳くらいに見えたし、華があって、どこにいても人一倍の存在感を放っていた。
俺は彼を好きに出入りさせていた。そうすれば波風が立たなかったからで、別に彼を受け容れていたわけではない。同じ空間で過ごす間、俺がほとんど口を利かないのを彼は気にしなかった。無理に話しかけてもこなかった。賑やかな家庭に育ち、いつも仲間に囲まれているので、存外、俺のそばで静かに過ごす時間が彼にはいい息抜きになるようだった。

ときどきミゲルは俺のピアノを聴きたがった。音楽は数少ない共通の話題だったこともあり、俺はたまに彼のリクエストを弾いた。
ショパンの夜想曲 第1番 変ロ短調 作品9-1や、第8番 変ニ長調 作品27-2。
有名な作品とはいえ彼がノクターンばかり選ぶのは意外だった。彼に似合うのは眩しい太陽や、空と大地のコントラストが美しいオレンジ畑だ。
あるとき理由を聞いたらミゲルはこう答えた。

__『おまえがノクターンを弾くのを見てるのが好きなんだよ。月の光とか夜の森とか、何かおまえっぽいから』

父が大きな贈り物をするのは決まって俺の気を逸らす必要があるときだ。ミゲルは『遊び相手』という名目で父が送り込んできた監視役であり、人質だった。母さんが死んで、ますます扱いにくくなった息子をこの家に縛り付けるための。
俺は彼に不干渉でいることを心がけ、それは出会ってから数年は続いた。__13歳の冬までは。



***



ディセンベルにその冬最初の雪が降ってから、3週間ほど経っていた。
夕暮れ時、家の中がやけに騒がしいなと思っていたら、警護班のヴァシリーが慌てた様子で俺の部屋に駆けつけて来た。

「アスランさん、すいません。ミゲルが怪我して救急車で運ばれて…今、社長が病院に行ってます」
「え?」
「川に落ちて…ってか、飛び込んだときに頭打ったみたいで」
「飛び込んだ?」
外は氷点下の寒さだ。また仲間と馬鹿げたゲームでもしていたのかと訝りながら俺は訊いた。「それで、ミゲルの意識はあるのか? 怪我の程度は?」
「えーと」

要領を得ないヴァシリーに痺れを切らし、自分でタクシーを呼んで病院へ向かった。外套を忘れたことに思い当たったのは車を降りた後だった。
ERの待合室でミゲルの仲間を5,6人見かけた。皆深刻そうな顔で身を寄せ合っていたが、顔見知りのひとりが俺に気づいてやって来た。

「ミゲルは大丈夫よ、さっきご両親がいらっしゃって説明を受けているのを聞いたの。意識もしっかりしているし怪我もたいしたことないって。ただ低体温症になりかけてるから、少し様子を見てから念のため入院して頭の検査をするらしいわ」
「彼はどうして川なんかに」
「指輪を落としたのよ」
彼女は俺を気遣うような顔をした。東洋系のきれいな人だった。最近よくミゲルと一緒にいる。「あなたのひいおじいさまのシグネットリング、彼にはまだ少しサイズが大きいのに、気に入ってずっと着けているでしょう。橋の上で手袋を外したとき指から抜けたみたいで、彼、咄嗟に…」
「そうですか。ありがとうございます」

それだけ聞けば充分だった。踵を返して出口に向かった俺を彼女は引き留めた。

「彼に会っていかないの?」
「命に別状はないとのことですし、今行っても治療の邪魔になりますから」
「待って、アスラン」
彼女は自分のマフラーを取って、俺の首に巻いてくれた。「明日は顔を見せてあげてね。彼、それがいちばん嬉しいはずだから」

俺はタクシーで家に帰った。カシミアのマフラーから微かにパチュリとレザーの香りがしていた。ミゲルの愛用の香水と同じ。
翌日、また病院に行った。一般病棟の廊下で、今度はミゲルの父親にばったり会った。

「これは、坊ちゃん。この度は愚息がご心配をおかけし、申し訳ありません」
「オズワルド。ミゲルの具合はどうなんだ?」
「はい、おかげさまで検査もひととおり問題なく終えまして、これから退院手続きをしに行くところです。わざわざお越しいただかずとも、こちらからお詫びに伺わせましたのに……誠に面目ないことで」

ガタイのいいスーツ姿の大人が、中学生くらいの子どもの前でひたすら恐縮している光景は人目についた。俺はオズワルドから病室の場所を訊き出して、早々にその場を離れた。
ミゲルは広い個室で休んでいた。ベッドの上で体を起こして車の雑誌をめくっており、頭に包帯を巻いているが、皆の言う通りすこぶる元気そうだった。
俺が病室に入っていくと、ミゲルは顔をあげてにっこりした。

「Hey, you. 来てくれたのか。嬉しいサプライズだな」
「事前にメールしたけど」
「悪い、スマホは死んだ。何か俺の入院が知れ渡っちゃって、皆ばんばんメールしてくるからパソコンも見てなくてさ」

どうやら本当に元気なようだ。

「……頭の検査に異常はなかったって、誤診じゃないのか。真冬の川に飛び込んだのに」
「実はけっこうキツイこと言うよな、おまえって」
ミゲルは笑いながら答えた。「いやーマジで焦ったわ。きつめの手袋をしてたのが良くなかったなぁ。スマホ触ろうとして脱いだ拍子に指輪がポロっと抜けちゃって、どっと冷や汗が出たよ。咄嗟に空中キャッチしてセーフ!と思った次の瞬間、ドボン。水が冷たいのなんのって、ほらよく言うだろ、体じゅうを針で突き刺される感じだって。まさしくそんな感じで、必死で岸まで泳いでさ。……あ、指輪はこの通り、死守したぜ」
「よくそんなふうに笑えるな」
「だって実際笑うしかねーじゃん、こんな間抜けな話。親父からは大目玉を食らったけど」
「オズワルドが怒るのは当たり前だ。きみは死にかけたんだぞ、ミゲル」

ああ、そうか、これは怒りの感情か。
俺は怒っていたらしい。昨日、ミゲルのガールフレンドからこの話を聞いてからずっと、無性に腹が立って何も手につかなった。

(……畜生。これじゃ結局、父の思惑どおりじゃないか)

もう二度と、こんな思いをするのは嫌だったのに。
誰かを大事に思って、俺のせいで災いが降りかからないかといつも心配して、何かあれば平常心ではいられなくなる、そんな存在を二度と作ったりしないと決めたのに。

「たかが指輪だ! それを渡したとき俺は言ったよな、『これは契約でも何でもない。両家の習わしだとかで、父が俺から贈り物をしろと言うから渡しておくけど、俺はこんなモノできみの一生を買おうなんて思ってないから、売るなり捨てるなり好きにしてくれ』って。なのに、どうしてこんなことするんだよ!」

俺が彼の前で大きな声を出したのはたぶんこれが初めてだった。というより、前に大声を出したのがいつか思い出せなかった。

「本当に困るんだ、俺のせいで死なれたりしたら。命を粗末にするのはきみの勝手だけど、俺に関係ないところでやってくれないかな!」

赤みがかった紫色の瞳をみはって、ミゲルは俺を見つめた。

「…そっか、おまえ、そんなに俺のこと心配してくれたのか」
彼はしばらくして言った。「ごめんな、俺のせいで怖い思いさせちまったよな」
「子ども扱いするな。別に、怖くなんか…」

ミゲルの優しい声のせいで、ふつりと緊張の糸が切れてしまった。
俺はベッド脇の椅子に座り込んだ。窓の向こうに、白っぽく輝く海が見えた。

「…オズワルドに会ったよ、さっきそこの廊下で」
それだけでミゲルは察しよく謝った。「あー、何か悪かったな。うちの親父、大げさだから」
「別に。むしろ立派だと思ったよ。普通の父親って、ああいう感じなのかな」

父は、俺が入院しても絶対自分で見舞いになんか来ないだろう。

「いや、うちの親父もだいぶ『普通』からは外れてると思うぜ」
ミゲルは苦笑いだった。「パトリック様に恩義があるのも勿論だけど、親父はおまえのことを赤ん坊の頃から見守ってきたから、半分身内みたいに思ってんだよ。俺に会うたびにおまえのことばっか訊いてくるんだぜ、『坊ちゃんは元気か』とか、『ちゃんと食べてるか』とか。俺はベビーシッターじゃないっつーの」
「……俺もオズワルドの子どもだったらよかったな」
「親父さんとまた何かあった?」
「ここ数ヶ月、顔も見てない。俺が何かしでかさないと息子の存在を思い出さない人だから」
「そんなことないって」

ミゲルは、世の中には子どもが可愛くない親もいるってことをなかなか認めようとしない。
気がつけば俺は話し出していた。久しぶりに激昂したせいで頭が疲れていたのだ。

「5歳の誕生日に、父上に子犬をもらったんだ。すごく嬉しくて、自分でちゃんと世話するって約束した。赤毛のオーストラリアン・シェパードで、目の色が左右で違ってて、青と茶色だった。__名前は、ロビイ」
「へぇ。俺も犬はだい好きだ。今度、写真見せてくれよ」
「持ってない。全部捨てたから」

俺はロビイに夢中だった。
彼が家の中のありとあらゆる家具の脚や電源コードをかじっても、俺の自信作の火星基地の模型を破壊しても。台所からキドニーパイを盗み、ミス・ランカスターを激怒させても。居間の鉢植えを引っくり返して母さんの大事なベニワレンの敷物を土まみれにしたときでさえ、俺は彼を愛するのをやめなかった。
体力が自分と互角か少し上回る子犬と格闘していたので、夜になるとくたくただった。朝、目が覚めるといちばんに彼のことを思った。どうか今日いちにち彼が何も悪いことをしませんように。
俺が恐れていたのは、ロビイが次に何か悪さをした結果、父に彼を取り上げられてしまうことだった。彼と離れるなんて考えられなかった。
……だけど結局は、俺が自分で彼を手放してしまった。

「ロビイが来て半年くらい経った頃、俺はちょっとした騒ぎを起こしたんだ。…と言っても、ひとりで無断外出して数時間行方不明になっただけなんだけど」

俺はただ、仕事でずっと帰ってこない母さんに会いたかったのだ。
母さんはNGOの代表を務め、アフリカやアジアの途上国で農業を教えていた。母の代わりに俺が3歳のときから生活全般の面倒を見ていたのは教育係のミス・バートンだった。行儀作法に非常に厳しい人で、俺が感情の起伏を表に出さなくなったのも彼女の躾の影響だった。
彼女の常識に照らすと俺は問題行動の多い子どもで、俺は学びたいことを自由に学ばせてもらえず、教わったのと違うやり方をすることも、ウサギの絵を描くように言われてロケットを描くのも許されなかった。俺はなぜそれらがいけないことなのかわからなかったので、幾ら注意されても『問題行動』を繰り返した。しまいにはミス・バートンを満足させることを諦めて、読みたい本を最後まで読むために木の上に隠れたり、博物館へ行くために2階の窓から屋根を伝って逃げ出したりした。5歳になるともう教育係ひとりの手には負えないということになって、父は元軍人のボディガードを2人、俺の監視役につけた。だけどそれは逆効果で、彼らが俺を頭から押さえつけようとすればするほど俺は反発した。
そんな締め付けの強い環境で母親への恋しさを募らせた俺は、彼女が講演のため一時帰国することを知り、首都アプリリウスへ行く計画を立てた。今思えば無謀だった。世の中の大人が、小さい子どもがひとりで飛行機に乗ろうとすれば不審に思うことを俺は知らなかったのだ。
計画はあっけなく失敗に終わり、俺は家に連れ戻された。

「__2人のボディガードのうち、リーっていう若いほうの男が俺は特に嫌いだった。なぜか俺は彼に憎まれていて、陰でよく嫌がらせをされたから。あの日、俺に出し抜かれて彼はかんかんに怒っていた」

俺が彼らに引っ張られるようにして自室へ戻ると、ロビイが尻尾を振りながら近寄って来た。するとリーがいきなり彼を蹴り上げた。ギャン、と鳴き声がして、俺の目の前でロビイの小さな体が壁際へ吹っ飛んだ。
一瞬目を回したロビイはすぐに起き上がると、体を縮めて部屋の隅へ逃げていった。

「俺はリーに食ってかかった。そんなに弱い者いじめがしたいなら俺を気が済むまで殴れって。そしたらアイツ、言ったんだ」

__『弱い者いじめ? そのお犬サマは世の中の大半の子どもより贅沢な暮らしをしてるぜ。アンタだってそうだ、その犬がいったい幾らで売られていたかも知らないだろ。金持ちの家に生まれて大事にされて、この上何が不満なのか知らねぇが、アンタは被害者じゃない。いいか、今度俺たちをコケにしたら、アンタの犬を袋詰めにして死ぬまで殴ってやるからな』

ミゲルはこの上なく不愉快そうに顔をしかめた。
「何だそのクソ野郎。おまえ、ソイツにいじめられてたことをどうして両親なり俺の親父なりに言わなかったんだ。ソイツに脅されてたのか?」
「え……だってそういうのは自分で解決するものだと思ってたから。でも、あの後すぐ母さんが飛んで帰って来て、教育係とボディガードをまとめてクビにしたけど」
「…ああ、そう」

それについてはオズワルドに感謝しなければならない。
彼は以前から俺が虐待を受けているんじゃないかと疑っていて、俺の周辺を部下に密かに見張らせていた。あのとき母さんに知らせたのも彼だったらしい。
それから彼が父を説得して、俺の警護にもアルビレオ社から人を回すようになり、母さんの知り合いの大学教授がときどき俺の勉強を見てくれて、環境は格段によくなった。

「__とにかく、あのとき俺は気づいたんだ。父上が俺に子犬をくれたのは愛情からなんかじゃなく、俺の圧力点を作るためだったんだって」

あの日、彼らが出て行ったあと、俺は隅でしょんぼりしているロビイのところへ行った。彼は俺に背を向けて無言の抗議をしていた。人間を信じていたのにどうしてこんな目に遭うんだ、と俺を責めていた。
俺は座り込んで、彼のつやつやした頭を撫でた。涙が零れ落ちて、止まらなくなった。ロビイは俺の涙の匂いを嗅ぎ、仕方なさそうに俺の膝に顎を乗せた。俺たちはそうやっていつまでも部屋の片隅で寄り添っていた。俺は泣きながら彼を遠くへやろうと決心した。二度とアイツらの手が届かない、安全な場所へ。

「ロビイはいまユニウスの片田舎の牧場にいる。元気にしているそうだ。いつでも会いに来ていいと言われたけど、彼を捨てた俺にそんな資格は無いから一度も会ってない」
「……なるほどね、そーゆーことか」
「何が」
「おまえ、いつも格闘術の稽古のときだけ目つきが違うじゃん。誰をそんなに殺したいのかなーって思ってたよ」
ミゲルは平然と言った。「顔に似合わずけっこう凶暴だよな、おまえ」
「…顔も凶暴なほうがよかった?」
「いや、感心してんだよ。おまえのそういう気骨のあるところが俺は気に入ってる。ロビイを逃がしたのだって、いざってときには存分に戦うためなんだろ」
「……そこまでわかってるなら、どうしてきみはわざわざ俺の足手まといになろうとするんだ?」
「んー。じゃあおまえは、生涯誰のことも愛さないって言うのか?」

質問に質問で返されて俺は少々ムッとした。

「…たとえばテロリストが俺ときみを誘拐して、きみの頭に銃を突き付けながら空港の管制システムを乗っ取れって脅してきても、俺は断るよ。ふたりとも殺されるけど、数千人の命よりも惜しいと思うほど俺はきみと親しくない」
「えええ……つまりおまえの予防線の張り方って、『巻き添えにしても心が痛まないかどうか』が基準なの?」
言われてみればまぁそうだな、と俺は思った。「だって銃を突きつけられているのがロビイだったら俺、ハッキングするし」
「マジか」
「大げさでもなんでもなく、俺にとって大事なものを作るって言うのは、そういうリスクを抱え込むってことだよ。俺のそばに3年もいれば、俺が過去に政府機関でどんなヤバいことに関わったか、ちょっとは気づいてるだろ」
「……」

俺は終わりなき夜に生まれついた〈怪物〉の子だ。だけどミゲルは違う。彼はまだここから出ていくことができる。明るい昼の世界へ。

「きみの親切には感謝してる。でも『今以上』の何かになろうとするのはやめてほしい。俺にそれは要らないから」
「……了解したよ、サーシャ。俺はおまえの『足手まとい』にはならない」

ミゲルがあっさり承諾したので、俺は少し肩透かしを食らった気分で立ち上がった。
そしてつい、もうひとつ予定にないことを言った。

「……俺、ショパンは苦手なんだ」
「そうなの? 上手いと思うけどな、おまえのノクターン」
「俺のピアノ教師がショパニストで、延々弾かされたから……本当は、バッハがいちばん好きなんだけど」
「あー、っぽいな。自律神経が整う感じ? ロジカルで理系っぽい」
「うん。………それだけ。じゃあ、帰る」

何で今こんな話をしたのだろう。内心戸惑いながら、俺は病室を後にした。
__ミゲルが俺の助言を聞き入れてくれたとしたら、もう彼のためにショパンを弾く必要もない。



それからわずか2日後だった。夕刻、ミゲルは俺を外に呼び出した。
ヴァシリーに連れられて行った先は彼らが溜まり場にしているクラブだった。営業前の店内に、大勢の人の気配を感じた。
テーブルを隅に寄せたフロアに、アルビレオの若手社員や街の不良のリーダー格が顔を揃えていた。何やら物々しい雰囲気だったが、俺を見ると彼らは前を開け、中央に立っていたミゲルが、いつもの爽やかな笑顔で振り返った。

「待ってたぜ、サーシェンカ」
「……いったい何が始まるんだ?」
「おまえにプレゼントしたいものがあってさ」

ミゲルの合図で、2人の男が黒い袋を引きずってきた。ファスナーの付いた、人がひとり入りそうな大きさの袋だった。
帰りたい、と俺は思った。あの袋の中には確実に、俺の見たくないものが入っている。
ミゲルは鼻歌をうたいながら屈みこんで、俺に見えるように袋のファスナーを下ろした

「おまえの犬を蹴ったクソ野郎ってのは、コイツで間違いないか?」

俺が黙っていると、ミゲルはすまなそうに言った。

「悪い、こんな顔じゃよくわかんねーよな。俺が行くまで手荒な真似はするなって言ったのに、堪え性のないヤツらでさ。揃いも揃って愛犬家なんだわ、こいつら」

袋からのぞいた顔は血だらけで歯も欠けていたけど、俺にはすぐあの男だとわかった。
いつか報いを受けさせようと記憶に刻み込んだ顔。

「あれ、息してるか? コイツ」
首を傾げたミゲルは立ち上がり、男の腹の辺りを蹴った。弱々しい悲鳴がフロアに響く。「生きてたわ。何だっけ、『袋詰めにして死ぬまで』? 想像力を持たない人間はこれだから嫌なんだよ。同じことをやり返される覚悟も無い癖に、自分は絶対大丈夫だと思って大口を叩くヤツが多すぎる。こっちの手間も考えて欲しいんですけど」

(……ああ、そうか。俺と同じで、とっくに出ていけないのか)

彼の持ち前の明るさに気を取られて失念していた。俺にザラの血が流れているように、彼にはこの街の裏社会を支配する一族の血が流れていることを。
彼もまた夜に生まれつき、狩るか狩られるかの世界で生きることを余儀なくされた子どもだったのだ。

「まぁでも、最初から袋に入ってくれてたほうが後片付けは楽か。殺さないほうが難しいんだよ、ついうっかりってこともあるし。子どもや動物をいたぶるようなゴミは、何されたって文句言えねぇよな」

さっきからミゲルの目は笑っていなかった。俺が止めないと本気でこの男を殺してしまうような気がした。

「……もういい、ミゲル」

他に何が言えただろう。
たとえ俺がそれを認めていなくても、ミゲルにとって既に俺は身内の人間なのだ。
俺に危害を加える者を彼は絶対に許さない。安易にロビイのことを話してしまった俺がいけなかった。

「気が済んだ。こんなヤツのせいでおまえが人殺しになることない」

復讐を望んでいたのは俺。ミゲルは俺の気持ちを汲んだだけだ。

「…わかったよ、サーシャ。おまえがそう言うなら」

さっきから頭の中にはベートーヴェンの『月光の曲』が流れていた。やけに重苦しい左手のアルペジオ。
俺がしっかりしないと、彼はいつか本当に俺のために人を殺してしまうと思った。
俺たちは同じ夜の森の住人だ。お互いを見張り合いながら共生し、永遠にここから出ていくことはないのだろう。



見世物が終わって、解散した店の外はすっかりネオン街だった。
ミゲルは俺をバイクの後ろに乗せて、海岸まで連れて行ってくれた。

「俺はロビイみたいにはならないよ、サーシャ」

誰もいない夜の浜で、ミゲルは晴れ晴れと宣言した。

「俺はおまえの足手まといになったりしない。俺には自分の身を守るすべがあるし、頼れる仲間も大勢いる。今日はそれをおまえに見せたかった。おまえは何も心配しないで、好きに生きりゃいいんだよ。俺は俺で、自分の意志でこれをやってる。おまえにはちょっと鬱陶しいだろうけど、何があってもおまえのそばを離れないって決めたんだ」
「……何で?」
「さあな。強いて言えば、おまえが俺だけのためにピアノを弾いてくれたからかな」

ミゲルは冗談めかして言った。本当の答えはどこにもないのかもしれなかった。

「なぁアスラン、この海は世界中に繋がってるのに、おまえはどうしてどこへも行けないと思い込んでるんだ? お袋さんが亡くなって、おまえを親父さんから守ってくれる人間がどこにもいなくなったと考えてるなら、それは違う。パトリック様や俺の親父の思惑がどうあれ、俺は全面的におまえの味方だから。おまえがまた家出したくなったら俺も協力するし、おまえが望むならどこへでも一緒に逃げてやるよ。だから、大事なものを作らないなんて、一生誰も愛さないなんて、そんな寂しいこと言うな。人生は一度きりなんだから、思いっきり楽しまなきゃ損だぜ」

俺はちょっと呆れていた。
さっきまでベートーヴェンだったのに、今の彼の調子ときたら、モーツァルト並みに軽快でロッシーニ並みに楽天的だ。

「……何で夜が『俺っぽい』んだ? やっぱり性格が暗いから?」
「え? ああ、ピアノのことか?」
ときどき話がワープするのな、とミゲルは面白そうに言った。「おまえは暗いっていうより、静かなんだよ。夜って優しいじゃん」
「やさしい……?」

ミゲルはガードレールに腰掛け、タバコに火をつけた。右手の人差し指に、相変わらず俺のあげた指輪があった。

「今の世の中、不寛容だからさ。『これが正しさです』と言ったもん勝ちで、それに喜んで迎合できる奴らはいいけど、そういう強い集団に属する人間ほど視野が狭くて想像力が欠落しがちだから、『違う』と声をあげる奴を片っ端から叩き潰さないと安心できないわけ。『こんな美しい正解に従わないなんて人としておかしい、危険だ』ってね」
「……そんなの現代に限らず、物理学界隈ではデモクリトスの時代から普通によくあった話だけど」
「そっか。まぁそういう、『ひとつの正しさ』が仮に太陽だとしたら、昼の光が眩しすぎて生きづらい連中にとっては、夜は安全で優しい世界だろ。闇に紛れて生きるほうが幸せな人間もいる。おまえはそれを黙って理解してくれるから」
「……」

冷たい夜風に吹かれながら、ミゲルは目を細めて笑った。

「つまりおまえは、俺にとって何よりも安全な場所なんだよ」



40 -Athrun-

《おはようサーシャ。起きてたか?》
「……おはよう、起きてるけど。何?」
《特に用はないんだけどさ。今日だったろ、”ソランジュ”のライブ》
「ああ」
《本当に行くのか?》
「行くよ。キラにも行くって言っちゃったし。……アイツの誕生日をすっぽかすと後が怖い」
《ああ、レイから聞いたよ。ひょっこり家まで来たんだって? 有名人になっても相変わらず自由だなアイツは》
「……あのさ、ミゲル」
《ああ、どうした?》

俺は思い直してスマホを取り上げ、カメラをONにした。

「どっちのネクタイがいい?」
《俺のあげたほう。夕方開演なのに気合入ってんな。つーかおまえ、まさかスーツで行くつもり? そんなにイザークに見つけてもらいたいなら止めないけどさ、どうせならもっと思い切ったコスプレとかのほうが…》
「これから”ミネルヴァ”に行くから」

素っ気なく答えると、ミゲルはちょっと沈黙した。

《……ああ、今日だったっけ》
「そう。遅刻できないから、他に用がないなら切るぞ」
《……》

ミゲルは何か言いたそうだった。俺はある種の義務感から気まずい空気を数秒共有し、「じゃあ」と言って電話を切った。
ミゲルの選んだほうのネクタイを締めなおして、鏡の中の自分と目を合わせた。酷い顔色が少しましに見える。

昨夜のシンとの会話のあと色々考えてしまって、薬を飲んでも余り深く眠れず、朝起きてもどんより重たい気分は続いていた。

__『ミゲルのためだったの?』
__『俺とラクスがミーアの人生を滅茶苦茶にしたから別れたんだよ』

ミゲルがあの悲劇の夜の真相をどこまで突き止めているのか、俺は知らない。
あのとき、俺はどうしてもミゲルを巻き込めなかった。__俺の手でアイツを犯罪者にしないと誓ったから。
だけどミーアの記憶がいつ戻るかわからない以上、イザークに全部押し付けて”ソランジュ”を抜けるのは余りにも無責任だったし、ミゲルがシホにミーアのことを頼んでくれたのは本当に有り難かった。

(……ミーアはもうずっとあのままなのだろうか)

一度でいいから今のイザークやキラの演奏を生で見たいという気持ちが抑えられない一方で、俺の姿がミーアの目に触れるかもしれないと思うと、まだ迷いはある。
もし、ステージの上から彼女が俺を見つけ、そして何もかも思い出してしまったら。可能性は限りなく低いとわかっていても、頭は勝手に最悪の事態に想像をめぐらせる。
両親に守られなかったことを、妹を『救った』ラクスの傲慢を、いちばん近くにいたイザークにすら届かなかった叫びを、そしてあの花火と銃声の夜を。すべてを思い出したら、あの明るくて優しい女の子はいったいどうなるのだろう。
百年の夢から醒めたいばらの城は、それでも美しいままそこにあるのだろうか。それとも呪いのいばらが枯れるとともに、百年の歳月を知って崩れ去るのだろうか。

誰からも愛される歌姫になるのがミーアの幼い頃からの夢だった。
あの日、絶望に黒く塗り潰された世界で、まだその夢だけは本当にすることができると思った。それにはイザークの存在が不可欠だった。
だけど俺は、彼女の夢の世界に暗雲をもたらすだけだ。
誰にも守られなかった過去をミーアは忘れたがっていた。だから彼女の地獄の始まりをつくった俺はいないほうがよかった。

__俺がウイリアム・キャンベルと関わったりしなければ。
俺とイザークがミーアの残酷な運命に打ちのめされたあの夜から、後悔しない日は一日もない。



***



「今日はいつもに増して心ここにあらずだね、アスラン」
食堂でギルバートに言われた。「会議中も時計ばかり気にしていたし。このあと大切な人との約束でもあるのかな。できれば帰る前に子どもたちの研究を見てやって欲しいのだが。きみが来るのを皆楽しみにしていたんだよ」

ここはアプリリウス郊外にあるミネルヴァ研究所に併設した児童シェルターで、周りでは4歳から15歳くらいの子どもたちが賑やかに昼食を取っていた。
彼らがこちらに注意を向けていないのを確認してから、俺は言った。

「あいにく今日は夜に都内で予定があるので。だいたい、俺なんか重役会議に出たってただのお飾りでしょう。…父の後継者はアイリーンだと皆に思わせるためのね」

Dr.ギルバート・デュランダル__最近どうも俺には、彼がラクスと同じ種類の人間に思えてならない。
良く言えばカリスマ性がある人だが、悪く言えば、巧みに言葉を操って他人の心の弱いところにつけ込み、思うままに動かすことができるタイプだ。

ギルバートは遺伝子工学を専門とする科学者で、元は政府機関の研究所にいた人だった。10年ほど前にアプリリウス支社CTOのアイリーン・カナーバによってバイオテクノロジー部門に招かれ、国防省やインテリジェンスの人脈を生かして新たな研究開発チームを立ち上げた。開発内容は極秘とされ、一般社員にはチームの存在すら認知されていない。
しかし、かつて経営理念をめぐる対立からディセンベルを追われたアイリーンが、父の後継者の有力候補と言われるまでになっているのは、ギルバートの持つ人脈と社内政治的手腕に拠るところが大きかった。

(……前は俺と同じで、出世とか人間関係には興味のない人に見えたけどな)

単にそう見せかけていただけなのか__或いは、自分の研究を守るために、やり方を変えたのか。

俺はたまたま彼の昔の職場に出入りしていた。それがユニウスの第七研究所__ラクスのいた『療養所』だった。
ラクスの死で計画が頓挫し、中央議会の介入を嫌った上の決定によって『療養所』も閉鎖されたが、そんな利害関係は現場の人間にしてみればどうでもよいことだ。同じ科学者として、我が子同然の研究を手放さなければならなかった彼らの悔しさは想像できる。
ギルバートがZA内部で地位を築き、国防省の協力を取り付けてこの研究所を創ったことには、ユニウス計画に対する彼の尋常でない執着が感じられた。
現在このシェルターに暮らす約50名の子どもたちは皆、知能の高さやひとつのことに突出した能力のせいで、義務教育など普通の社会生活から弾かれてしまった子らだった。ギルバートは彼らの才能を自由に伸ばすための訓練環境と衣食住を提供していた。そしてこの子たちを被験者として、ラボでは様々な実験が_当然、表沙汰になればまずいものも含め_行われている。
彼らの中から『次のラクス』を見つけるために。

その道で五本の指に入る優秀な科学者で、目的のために手段を問わず、他人を利用することに何の躊躇もない__要するにこの人自身サイコパスなのだが、俺は彼にひとつ借りを作ってしまって、その返済のためにこうして定期的に彼の研究や政治的野心に協力させられている。
午前中、定例会議に続いてラボで体力と知能のデータを細々と取られたせいで、俺は心身ともに疲弊していた。

「貴方との約束ですから茶番には付き合いますよ。心の中で何を考えて不毛な時間をやり過ごすかは俺の自由です」
「おっと。ご機嫌斜めだね」
ギルバートは愉快そうに言った。「2年以上も前に別れたきりの元恋人と会うとなると、さすがのきみもナーバスになるのかな」
「……レイから聞いたんですね。知っててからかうなんて、相変わらず人が悪い」

レイは少し離れたテーブルで子どもたちに囲まれている。いつもは昔の俺以上に無表情だが、今は別人のように楽しそうな顔で笑っていた。
彼はここのシェルター出身者なのだ。つまりはギルバートの意のままになるスパイで、俺のことを事細かに報告しているに違いなかった。

「レイが何を言ったか知りませんが、イザークとのことはもう過去です。……それに俺は彼に会いに行くわけじゃないですから」
「しかし彼はきみと罪を共有している」

サラダをつつく手を止めた俺を、ギルバートの鋭い目が観察していた。

「肉体的に離れてどれだけ時間が経とうと、秘密が守られる限り、きみたちは世界にたったふたりだけの共犯者だ。それはどんな贈り物よりも互いを強く結びつけているように、私には思えるのだがね。少々妬けてしまうよ」
「冗談はやめてください。……秘密なら俺は貴方とも共有していますよ」
「そうだが、これはあくまでもビジネスだ。きみは私と取引して渋々条件を呑んだ。恋人とミゲルの両方を守るためにね」
「俺はただ自分の不始末の責任を取っているだけです。ラクスと俺のことはアイツらには関係ありませんから」
「誤解しないでくれたまえ。私はただ、きみともっと親しくなりたいと思っているんだよ、アスラン。我々の計画に参加してくれないか。決してきみの不利益にはならないと思うがね」

この人がラクスと違っているのは、相手を手懐けるために平然と嘘を言うところだ。
ラクスは嘘つきではなかった。常に彼女にとっての真実だけを口にした。
まぁ結局、相手を利用価値があるかどうかで評価し、要らなくなれば切り捨てるところは同じなのだが。

「…それって例えば、俺を貴方の見つけてきた女性と結婚させて、最高の遺伝子の掛け合わせの子どもを作るとか?」
皮肉を言った俺に、ギルバートは肩をすくめて見せた。「何も無理に結婚しろとは言わないが、きみの遺伝子を自分の子に欲しがる女性は世の中にごまんといるはずだよ。……だが私が言っているのは、きみ自身が欲しいという話だ。我々が組めば、きっとZAをもっと良い会社にできる。そう思わないかね」
「……」

隣で俺たちの会話を聞きつけた7歳の少女が、「ギル、アスランをお嫁さんにしたいの?」と声を上げた。途端にテーブルは大騒ぎになった。

「そんなのダメー! アスランは私と結婚するんだから」
「違うでしょ。ギルとアスランがふたりで会社を乗っ取るって話だよ」

体力の有り余っている子どもたちに揉みくちゃにされながら、ふと強い視線を感じて顔をあげると、レイが射貫くような目でこちらを見ていた。

帰り際、ギルバートは俺を呼び止めて言った。
「Angelが後天的疾患を発症したのは本当に残念だったよ。きみと彼女の子は、人類最高レベルの知能を持って生まれただろうに」
俺はその意見に賛成しかねた。
「ラクスには人の痛みがわからなかったし、俺は協調性や社交性に欠ける。悪いところが合わさって、史上最悪の社会不適合者が誕生していた可能性だってありますよ」



ラクスのように濁りない精神のまま人を殺せる人間を、俺は知らない。

彼女の特殊能力を活用したユニウス計画は、因果関係を複雑にすることで決して足のつかない秘密工作を可能にするものだった。裏で糸を引いた存在が露見しないことが担保されていれば、報復や憎しみの連鎖という副作用を考慮することなく、目的を達成できる。
彼女の手から放たれた蝶の羽ばたきは、遠い地のひとつの戦争を終わらせ、また別の地でひとりの独裁者の野望を挫いた。__その過程で大勢の人間を嵐に巻き込んで。

ラクスにとっては、それらは最大多数の人々の幸福のための小さな犠牲だった。彼女は徹底した功利主義的思想の持ち主で、寸分の迷いもなく命を選別することができた。
助ける命と、助からなくても『しかたがない』命。

「……ましょうか。…道が……」

__『では始めましょうか。それしか道は無いのですから』

道は常に他にもあったはずだ。しかし彼女が『無い』と言えばそれが真実だった。10代の少女が見ないと決めたものを、大人たちもまた無視したのだ。

「……間に合わないかと。__アスラン?」

くぐもって聞こえるそれがレイの声だと認識した途端、現実に引き戻された。エンジンの回転する音と風のうなり、日中の白い光。

「ごめん、聴いてなかった。何?」
俺のぼんやりに慣れているレイは、運転席から同じ調子で話を繰り返した。「この先で事故があったようで、車線規制されています。30分ほど到着が遅れそうです。予定を変更してセントラル・ホールへ直行されますか」
「ああ……それでいいよ」

一度帰って着替える予定だったのだが、仕方ない。黒いスーツだし、ネクタイとカフリンクスを外してシャツを崩せば、まぁ何とかなるだろう。

(というか朝イチの会議が終わればスーツなんて用済みじゃないか。ラボではスポーツウェアに着替えるし、そのあとの着替えも持っていけばよかったな)

俺はどうもそういう要領が悪い。反省していると、レイはミラー越しにちらりと俺を見た。

「それともどこか店に寄っていかれますか?」
「いや、大丈夫だ。あんまり遅くなるとシンに悪いし」

ただでさえ気を遣わせて、最前列を諦めさせてしまったし、本当に、何か埋め合わせを考えなければ。

(シンが喜ぶものって何だ……イザークのサインとか? キラに頼めば何とかなるかな)

段取りを考えながら目を上げると、レイがまだこちらを見ていた。

「前見て運転してほしいんだが」
「渋滞に嵌まりました。自動運転モードです」
「……俺に何か言いたいことがあるなら言ったら?」

体感3分くらいの沈黙があって、ようやくレイは言った。

「貴方はなぜギルの…Dr.デュランダルの誘いを受けないのですか」
「……」
「Dr.デュランダルは行き場のない俺たちに生きる場所を与えてくれたんです。持って生まれた素質を無理解で凡庸な大人たちに抑えつけられる苦しみは、貴方ならわかるはずだ。人それぞれの能力や適性は生まれた時点で既に決まっている、それがわかっているのにすべての子どもに『平等』に均質な教育を施すなんて、非論理的で時代遅れです。Dr.デュランダルの研究が世に認められれば、世界はもっと豊かで正しい姿になる。それなのに貴方はいつもあの人の考えに懐疑的だ。Dr.デュランダルは貴方との議論を楽しんでいるようですが、正直見ていて不愉快です」

まるで非国民を見るような目で詰ってくるので、俺は閉口した。
レイがギルバートが正しいと信じるあまり、彼を否定する人間の存在を許せなくなってしまっているのが怖い。カリスマ性のある強いリーダーを持つ集団が陥りがちな心理だ。幾ら自分たちの正当性を主張したところで納得しない者は必ずいるから、行きつくところは異端者の弾圧と排斥になる。
俺はレイをこれ以上刺激するのを避けた。(運転中だし。)

「ギルバートの研究を頭から否定しているわけじゃないさ」
むしろあの人にどうしようもなく惹かれてしまう自分がいるから、厄介なのだ。「……だけど、理にかなった効率の良い生き方だけが人を幸せにするわけじゃないだろ」
「ご友人のキラ・ヤマトのことを仰っているなら、あの方には音楽の才能もあったというだけのことです」

鋭い指摘をされて、苦笑が漏れた。フロントガラスの前方、たなびく雲がピンク色に染まっていた。

「……昔の知り合いの話だよ」

ミーアは、ラクスが病気のために髪をすべて失ってしまったのを知っていただろうか。
いつもピンク色の長い巻き毛のウィッグをつけて、痩せ細った首や手足を覆い隠す白いドレスを着て、妹の訪れを待っていたことを。

ラクスがその生涯で一度だけ信条を曲げたのは、彼女自身の命よりも妹のミーアの人生を優先したときだ。
彼女の両親や『療養所』の大人たちは、幼い妹に生体ドナーとしてつらい思いをさせても、ラクスを生かし続けようとしていた。けれどラクスは唐突に終わりを宣言し、最後の”唄”をうたった。そして残された時間をただの17歳の少女として生きた。

(……会って話したいな)

いつだって俺の中の彼女の思い出は、きれいなまま再生される。
こんなピンク色の夕焼け空や、白いドレスを見るたびに。



See you at the next stage!