41 -Shin-

ねぇアスラン。
約束を守れないで、ごめん。

俺は今はちょっと遠くにいるけど、いつかアンタに言いたいことがあるんだ。
俺はこれっぽっちも後悔してないって。
たとえ、時間を巻き戻して人生をリセットできたとしても、俺は必ずアンタに会いに行く。
あの雪の日、あの時刻のセントラル行きの汽車に飛び乗って、アンタに話しかけるよ。

__それだけはどうしても伝えなきゃ。



***



「ねーねーねーアスラン、見て、グランドピアノがある!」
「本当だ。イザークが弾くのかな…」
「あの位置だし、絶対そうだよ。え、ライブで聴けるとか嬉しすぎる。やっぱツアーの最終日だから特別? つか、こんな後ろでも結構よく見えるね。モニターでかすぎだし、さすがセントラル・ホール! ヤバい、めっちゃドキドキしてきた」
「ここって確かボクシングの世界大会とかでも使われるんだよな」

会場に入ってから周囲の熱気にも当てられてテンションは上がる一方で、ずっとソワソワしている俺と対照的にアスランは普段どおりだった。
……普段どおり、というか。

「あのさアスラン、ずっと気になってたんだけど、何でスーツなの?」

さすがにジャケットは脱いだらしいが、ライトグレーのYシャツはおそらく最高級ブランドのやつだし、レースアップシューズも見るからに高そうだ。
そういうフォーマルな格好を見るとやっぱり庶民とは育ちが違うって感じがする。ただ正直今は、別の意味で違うんじゃないかと思う。
おまけに彼は顔の半分が隠れるサイズの半透明のサングラスをかけていた。

「帰って着替える時間がなくて。まぁ照明が落ちたら服装なんてわからないさ」
「そりゃそうかもしれないけど、じゃあそのでっかいサングラスは何?」
「ライブ中に観客席をモニターに映したりすることもあるから、念の為」
「…ああ、なるほど」

(もしかして、アスランが見つかりたくない相手って、Yzakっていうより…)

訊きたい気持ちをぐっとこらえて俺は言った。「Yzak、ピアノで何弾くのかな。あれがいいなー。’The Butterfly Effect’。知ってる?」
「……いや。”ソランジュ”の曲にそんなのあったか?」
「うん、マイナーではあるけど。ファーストアルバムの初回限定盤のインストで、歌入りのは無いんだけど、ピアノ・ソロのすげーいい曲なんだよね。何か、Yzakがたまたま夜中に放送してた同じタイトルの昔の映画を観てたとき思いついて書いたんだって」
「映画…?」
「えっと、主人公がタイムリープで過去に戻って幼馴染の女の子の運命を何とか変えようとする話、だったかな。でも何度やり直してもうまくいかなくて、最終的に、どの過去でも主人公自身が彼女の不幸の引き金だったことに気づいて、最後に過去に戻って彼女との関係を一切断つんだ。その未来で彼女の幸せな姿を遠くから見届けて、終わり」
「…ああ、それなら俺も一緒に観た」
「マジ? じゃあアンタも聴いたことあるんじゃないの」
さあ、とアスランは首を捻った。「あのころ曲は山ほど作ってたけど、ピアノ・ソロなんかあったかな…。だいたい、アイツあの映画嫌いだぞ。矛盾だらけだし結末も納得いかないって文句言ってたような」
「そうなんだ。俺は難しいことはわかんないけど、今喋ってて、何かアンタみたいな主人公だなって思った」
「俺? 何で…?」
「アンタってさ、自分ひとりが消えて大切な人たちが幸せになれる道があるなら、当然のようにそっちを取るだろ」
「……」

開演5分前のブザーが鳴って、客席が徐々に暗くなった。
待ちきれなくなった観客から、ステージへ向けて自然とコールが沸き起こっている。高まる期待と興奮。俺はライブが始まる前の、この雰囲気が好きだ。

「アスランは、もし時間を巻き戻すことができたら、どこからやり直したい?」
「……急に言われても難しいな」
「え、意外。誰だって後悔してることのひとつやふたつ、あるだろ。『あの時ああすればよかった』って、考えない?」
「俺、小さいときちょっと普通じゃなかったから」
アスランはさらっと言った。「後悔していることが多すぎて、どの時点まで戻ればいいのかわからない」
「あー…」
「それに、人生をやり直したところで、過去の自分と同じ選択をしないとは言い切れないんじゃないか?」
「そうなのかな。……もしかして、Yzakと付き合ったことも後悔してるとか?」

俺の突っ込んだ質問にアスランは苦笑した。

「それは無いよ。高校を卒業したら関係が続かないのは最初からわかってたし、違う条件下で会えていたら…と思うことはあったけど」
「……ふーん」

それって今もYzakが好きってこと?__とは、やっぱり訊けなかった。

「シンは、いつにするか決まってるのか?」
「え、何が?」
「人生をやり直すポイント」
「あー、俺は、元の家が火事で焼ける前かな」
できるだけ軽い調子で俺は言った。「ミゲルに聞いたかもだけど、俺の両親、放火で殺されたんだよね。だからガキの頃は、過去に戻ったらどうやってふたりを助けるか、綿密に計画立ててシミュレーションしてた。放火したクソ野郎を野放しにできないから、現行犯で逮捕されるようにどう動くか、とか。……まぁ当時の俺ってけっこう現実が見えててさ、映画や漫画みたいに人生やり直しなんてできないって知ってたけど、たぶん、自分を立て直すのに必要なことだったんだろうな」
「……」

(あれ、重かった?)

アスランが何も反応しないので、俺は慌てて喋り続ける。

「あ、でも、振り返ってみると、俺と妹はかなり運が良いほうだったよ。叔父夫婦が親代わりになってくれたおかげで、たいして苦労しなかったし、他にも学校のセンセーとか、いい大人や友達に恵まれてさ。だから、親を亡くしてよかったなんて絶対思わないけど、その後に積み上げた経験とか、出会った人とか_全部無かったことにして戻りたいかって訊かれたら、微妙かも。俺、今の自分が嫌じゃないし。過去に戻って親を助けられたとして、その後ごく一般的な家庭で育って、不良同士の喧嘩も夜遊びも無縁の世界で生きる俺って、もう全然違う人間になるんじゃね?_って思うし」

照れくさいので言わないけど、『出会った人』の中にはもちろん、アスランも含まれてるわけで。

「……俺はおまえと話してると、人間もまだまだ捨てたものじゃないって思えるよ」
「え? なに、聞こえない」
「シンはすごいなって言ったんだ」

突如空間をぶち破ったピックスクラッチに、どっと周りから歓声が起こった。
ステージの照明がいっせいに点灯し、会場が白い閃光に包まれる。
灼けるような光の中で、アスランはKiraの奏でる爆音が聞こえていないみたいに、俺の目を見て微笑んでいた。

ついに、ツアーの最終日を飾る”ソランジュ”のコンサートが幕を開けて。
世界でいちばん好きなナンバーの演奏が始まっても、俺はしばらく、アスランの横顔だけ見ていた。

__『ミーアの人生を滅茶苦茶にしたから別れたんだよ』

昨日俺は、アスランと話したあと、なかなか寝付けなくて。
考えてみれば、今まであまりLacusに注目したことがなかったから、手元にあるLacusのインタビュー記事を片っ端から読んでみた。

『元々の私は引っ込み思案の、泣き虫で平凡な女の子だったんですよ』
と、Lacusは語っていた。
『子供のころ、私は自分のことが嫌いで、別人になって全然違う人生を送りたいといつも空想していました。歌手になりたいって夢はあったけど、私なんかには無理だとも思ってたんです。_でも結局、私には歌うことしか取り柄がなかったし、あるひとに”人間死ぬ気でやれば大抵のことはできる”って言われて(笑)。それで、一回死んで”なりたかったもうひとりの自分”に生まれ変わるつもりで、初めてステージに上がったのが13歳の時でした』

『今はすごく幸せ』と笑顔で語るLacusと、アスランの間に、2年前に何があったのか、俺が知らされることは一生無いのかもしれない。
彼らの問題について俺は部外者で、アスランが今どんな気持ちでYzakやLacusを見ているのか、わかるなんて軽々しく言えないけど。
遠いステージを見つめる横顔に、胸が締め付けられて。

泣きそうになるのを堪えながら、このひとを悲しませることだけはしたくないと、強く思った。



42 -Athrun-

「正気ですか?」
「ふふ。わたくしに面と向かってそれを訊いた方は久しぶり」

白い薔薇に囲まれたあずまやでティーポットを傾けながら、彼女は笑った。そして、カップに注いだ赤い液体に、ティースプーン2杯のはちみつを入れてくるくると混ぜた。

「さあ、お茶をどうぞ。アスランのために特別にブレンドしたストロベリーティーですのよ」
「……ありがとうございます」

カップを口元に運ぶと、甘酸っぱい香りがした。

「お味はいかが? 苺と林檎とローズヒップに、スパイスを色々と調合してみました」
「美味しいです。なぜBelovedに”唄”を聴かせたりしたんですか、Angel」

彼女はいささか不服そうに俺の顔を見た。

「またDr.デュランダルに何か頼まれて来たのですか。それともお父様に?」
「大人たちの都合なんか僕にはどうでもいいことです。…ああ、勿論ルールは守ります。このあずまやはあなたのプライベート空間だ。ここでの会話の内容が他人に漏れるおそれはありませんよ」
そうではなく、と彼女は拗ねた声を出した。「今日のアスランはお友達としてわたくしに会いにいらしたのでしょう? なら、ラクスと呼んでくださいな」
「言うまでもないですが、妹さんから移植を受けなければあなたは死ぬんですよ、ラクス」
「ええ、わかっていますわ」
彼女は満足して答えた。「組織はわたくしをもうしばらくは生かしておきたいでしょうし、少し前まではこちらと利害が一致していました。でも、もう全部終わりにしたくなったのです」
「それはどうして」
「ミーアに好きなひとができました」
「……はい?」

予想外が過ぎて指が滑り、カップとソーサが激しくぶつかった。
彼女は俺の動揺をよそに、ひとりで悦に入っていた。

「昨年に両親が別居したのはアスランもご存じでしょう。ミーアは父とディセンベルの新しい家に移ったのですが、お隣に『王子様みたいにカッコいい男の子』が住んでいるのですって。ミーアは近ごろ会うと彼の話ばかりで、すっかり恋する乙女なんですの」
「……そのことと、あなたが死のうと決めたことに何の関係が?」
「知らないのですか? 恋をしたら女の子は変わるのですよ。……最近、ミーアが会いに来てくれるとハッとしてしまいますわ。あの子がどんどんきれいになっていくようで」

彼女は儚げに微笑み、自身の痩せ細った手首を隠すように、そっと袖を直す。

「……つまり、本来あなたの”影の存在”にすぎなかったBelovedが、あなたに無いものを実は全部持っていることに気づいて、生きているのが嫌になったわけですか」
彼女は肯定も否定もしなかった。「早く両親があなたと同じことに気づくとよいのですが。彼らは今度こそ、完璧な娘を手に入れたのですから。__そうしたらミーアでなく、わたくしのほうが『要らない子』になりますわね」
はぐらかされたような気がして、俺は苛立つ。「要するにあなたは、いつか妹に嫉妬するようになることが耐えられないんですね。或いは組織に『ラクスはもうダメだ』と思われることが。だから捨てられるより先に捨てようとしている__そんなにご自分の矜持が大事ですか。命よりも?」
「どうせ死ぬなら価値のあるうちに惜しまれて死にたいでしょう?」
「自分の命を惜しむのは自分だけで充分です。あなたには、やりたいことがまだたくさんあるはずだ」
「でも、アスランがこうしてわたくしに会いに会いに来てくださったのも、あなたにとってわたくしがまだ価値のある存在だからですわ」
「……ご無沙汰していたのは謝ります。しばらく距離を置いてひとりで考えたかったので」
「そうですか。この一年、色々ありましたものね」
「はい」

俺たちはしばらく沈黙して紅茶を飲んだ。
晴れた穏やかな日だった。
暑くも寒くもなく、青空には雲が流れ、庭の木々が心地よげにそよいでいる。
この完全な世界の中心にいる彼女がもうじきいなくなるということが、俺にはうまく想像できなかった。

「そう言えば、アスランはミーアに会ったことがないのですか?」
「Belovedにですか? ええ、ありません。僕があなたと接触していることは一応秘密なので、外部の人間が出入りするエリアには行かないようにしてます。……それに、あなたがたの父上とばったり出くわしたら気まずいでしょ」
「そうですわね」
ラクスは少し考え込む様子だったが、ネックレスを外して、俺の前に置いた。「それでも、やはりこれはあなたにしか託せないと思うのです」

それは、去年のバレンタインに、彼女が俺に贈ったペンダントの片割れだった。

「……託すって、何を」
「”鍵”です。例の事件の子どもたちのぶんと、ミーアに使ったものが入っています」
俺は耳を疑った。「……そんな危ないもの、僕に預けてどうするんですか」
「要らなければ捨てていただいて構いませんの。そうそう気軽に使うものでもありませんし。万が一のために作っておいたのですが、さすがにちょっと、自分では捨てられなくて」
「いやいやいや、だからって僕に押し付けないでくださいよ」

冗談じゃない、何が『構いませんの』だ。

「…そもそも僕には、治療を拒否するために妹を使う神経が理解できません。Belovedは確か僕と同い年ですよね。平均的知能レベルの10歳児には重すぎる選択では? __姉を見殺しにするわけですから」
「仕方なかったのです。未成年のわたくしが幾ら延命拒否したところで、母に撤回されるので」

彼女がテーブルにクッキーの屑をまくと、小鳥が1羽、2羽と飛んできてそれをついばんだ。

「ミーアはいつも隠れて泣いていましたわ。病院が怖いと。嫌なら嫌と、大人の前ではっきり言うべきです。わたくしが死ぬのは病気のせいであって、ミーアに責任はありません。それどころか、あの子自身は健康なのに、5つのころから何度も注射や入院を繰り返し、麻酔の副作用や穿刺の痛みに耐えなければならない生活を強いられてきたのです。あの子には両親を罰する権利があります」
「それはあなたの怒りであって彼女のじゃない。確かに、組織にそそのかされたとはいえ、あなたの両親がやったことは生命倫理にもとる行為です。しかし、親に逆らって移植を拒否することをBelovedは本当に望んでいるのでしょうか」

彼女は不思議そうに俺を見つめた。

「アスランもご存じのとおり、わたくしの”唄”は聴かせる相手に受け容れる心がなければ持続効果がありません。ミーアはもう痛い思いをしたくないのです。だから自分でNOと言えるように、背中を押してあげただけですわ」

軽い疲労感に襲われた。
同じ言語を話しているのに彼女と言葉が通じないと思うことがあるが、今がまさにそうだった。

「…相変わらず身勝手なひとですね」

不穏な空気が伝わったのか、テーブルの小鳥が一斉に羽ばたいた。

「誰だって口に出せない暗い欲望や衝動を抱えているものでしょう、人を殺したいとか、重要機密をしゃべりたいとか、死にたいとか。だからと言ってそれを本当に実行したいかどうかは別ですよ。あなたはBelovedの『姉を救いたい』『両親を喜ばせたい』という願いを無下にして『痛いのは嫌だ』という気持ちだけを増幅させた。姉の救世主になるのを拒んでしまったことを、彼女は一生悔やむかもしれませんよ」
「アスランは本当に優しいですわね」

高い塀を越えていく鳥たちを見送って、彼女はひとごとのように言った。

「だからあなたは迷うのです。お母様が亡くなられてから、ずっと暗い顔ばかり。救えなかった人たちのことを考えても、あなたが辛くなるだけなのに」
「……自分のせいで、大勢の人を巻き込んで死者まで出して、笑えと言われても無理です」
「どうしてアスランのせいになるのですか? あなたはまだ10歳で、ここに『来たこともない』のに。引き金を引いたのはあなたではありませんし、わたくしが死ねば計画の続行は不可能です。もうそれでいいではありませんか」
「……」

俺が頑なに黙っていると、彼女は少し困ったように笑う。

「どうやら、わたくしとあなたとは永遠に相容れないようですわね。…でもそんなあなただから、”鍵”の番人に相応しいと思うのです。わたくしからの最後のお願いですわ。これの存在が大人たちに知られぬように、くれぐれも気をつけてくださいね。__特にDr.デュランダルのような人たちには」

『最後の』と言われてしまうと、折れないわけにいかなかった。

「……預かってもいいですよ。その代わり僕の質問に答えてください」
「はい、何でしょう?」
「昔、あなたは妹を殺そうとした。父親で主治医のDr.キャンベルに理由を訊かれて、『人を殺してみたかった』と答えていますね」

彼女は当時7歳だった。書類上は、子どもが遊んでいて乳児を死なせかけた不幸な事故で処理されたが、真相は違う。

「悪い子ですわね、アスラン」
彼女は愉しげに言った。「また機密情報を勝手にのぞいたのですか?」
「でも妙なんですよね。あなたは問題解決のために人を殺すという選択肢は持っているが、猟奇殺人者にも快楽殺人者にも該当しない。生まれたばかりの赤ん坊を殺すことに何のメリットがあったんでしょうか」
「わたくしに殺意があったのは事実です。でも父に止められて、以来この療養所に隔離されてしまいましたが」
「あなたはその頃から父親の『もうひとつの顔』に気づき始めていたのではないですか。……つまり妹の生死は問題じゃなかった。あなたの真の目的は、Dr.キャンベルの出入りする第七研究所の精神病棟に入院して、情報を集めることだったんですよね。だが、Dr.キャンベルは娘であるあなたへの警戒心が強く、”唄”が通用しない。あなたは闘病を続けながら、自分の手足となって動かせる駒を探していた。そこへ現れたのが僕だ」
「……」
「僕の協力であなたはDr.キャンベルの犯罪の決定的証拠を手に入れた。そしてインテリジェンス上層部と取引し、国の極秘計画に関わる父親の処遇を彼らに委ねる代わりに、父親の仲間を『断罪』した。少し前に、政財界の重鎮数名が相次いで自殺して世間を騒がせましたが、あれはあなたの仕組んだことですよね」
そうですけれど、と彼女は小首を傾げた。「アスランが本当に訊きたいことは何ですか?」
「僕にも”唄”を聴かせましたか、ラクス」
「……」
「教えてください。別に今さら絶交だとか言わないので。ただあなたのそばにいると僕は時々、自信がなくなるんです。これが僕自身の意志なのか、あなたに意識を操られてそう思っているだけなのか」

ブルーグレーの目がわずかに揺れていた。俺の言葉が彼女の心をそんなふうに動かすことは滅多にない。
少しして彼女は口を開いた。

「思えば、あなたにはこれまでたくさん無理なお願いを聞いていただきましたわね」

俺は顔をしかめた。なぜなら、過去を懐かしむ彼女の話しぶりはまるで__

「友だちが困っているときは助けるものなんでしょう。僕にはあなたとニコルしか友だちがいないので、よくわかりませんが」
「あら、最近よくお家に遊びに来られるミゲルさんというかたがいるでしょう?」
「彼は友だちなんかじゃありませんよ」
「わたくしのお友だちはあなただけでしたわ。お友だちの心を無理やり覗くことはできません」
「……友だちだから、僕は使役対象ではなかったと?」
逆です、と彼女は事もなげに言った。「あなたには初めてお会いした日から、わたくしの”声”がまるで届かなかったのです。わたくしと相性が悪いという意味では、アスランは父と通じるものがありますわね」
「……それは何か嫌ですけど」
俺は詰めていた息を吐いた。「よかったです。状況を考え合わせるとあなたが僕をマインドコントロールしている可能性はほぼ除外できると思っていたのですが、今のあなたの答えを聞いて確信できました」

俺は自分のネックレスを首からはずし、彼女へ差し出した。
親指の先くらいの大きさの銀のペンダントは、1枚のタブレット・チョコレートを半分に割ったカタチをしている。彼女が俺に託したもう半分のチョコレートと、一見して見分けがつかない。

「念の為、これと交換しておきましょう。あなたの私物から無くなっていることがわかれば、連中に怪しまれるかもしれません」

彼女は頷き、神妙な面持ちで俺の手からそれを受け取った。

「わかりました。肌見離さず、お墓まで持って行くとお約束しますわ」



***



「アスラン、アスランってば」

やけに明るいなと思って、気がつけば、シンが俺の顔の前でしきりに手を振っていた。
大ホールのざわめきが耳に流れ込んでくる。
メンバーの姿はとうにステージに無く、興奮冷めやらぬ観客も退場を始めていた。

「…ああ、俺たちも出ないとな」
「うん」

人の流れに乗って出口へ進みながら、シンは心配そうに言った。

「アンタ、大丈夫かよ。何かライブの間ずっとぼんやりしてなかった?」
「え……そんなことないぞ。やっぱり設備が立派だと音もいいんだな。最初は緊張したけど、気がついたら普通に聴き入ってたよ」
「…あ、そう」

体の中に音の余韻が残っている。
建物から出て夜の外気と喧騒に触れても、心地よい浮遊感はしばらくの間続いた。
この感覚、ニコルのピアノを聴いたあとと似ている。数時間前までとは確実に違う、何か良いもので満たされた自分。

バスに乗るのは久しぶりだった。
ふたり掛けの後部座席に座ってから、窓際のシンがポツリと言った。

「……やっぱりKiraのギタープレイは次元が違うよな。正直俺、プロになれたとしても全然勝てる気がしない」
「本人はあんな甘ったれた感じなのにな」

俺は苦笑するしかなかった。
キラは、イザークいわく『車のハンドルを握ると性格が変わるタイプ』だ。今夜も攻めまくった演奏スタイルで観客を沸かせていた。

「キラは特殊だから。たまたま最初に出会ったのがギターだっただけで、その気になればどの方面に進んでも天才だって言われたんじゃないかな。アスリートでも、研究者でも。確かにアイツは個人プレイにおいては超人的だけど、おまえが目指すものとは方向性が違うだろ」
「まぁ、俺的には、Kiraの奔放すぎるギターを生かしてきっちり”ソランジュ”のカラーに仕上げるYzakが、やっぱいちばんカッコいいけどね」

シンにはとても教えられない。
イザークがキラの『思いつき』に自分で対処することに方針転換したのはつい最近のことで、地元では、ライブ後の舞台袖でしょっちゅう掴み合いの喧嘩をしていたなんて。

「それにしても、おまえがキラにそんなに対抗心を燃やしてるとは知らなかったよ」
俺が言うと、シンはそっぽを向く。「別にそーゆーわけじゃないけど。今まであんまりYzak以外は目に入ってなかったから…。っていうかYzak含めて世界が違いすぎて、自分と比べてどうとか考えもしなかった。アンタがあの”大天使軍団”の元メンバーだったって知るまで」
「…軍団?」
「アンタもたいがいチート級だし、ルナやKiraに『不釣り合いだ』とか『近づきすぎたらヤケドする』とか散々言われて落ち込んだりしたけど、俺にとっては、結局この距離感なんだよなー」
「シン……俺は、さっきからちょっとおまえの言ってることがわからないんだが」
「最初に汽車で会った時も、こうやって並んで座っただろ。……あの時は、アンタのこと何にも知らなかったけど、今でもアンタは俺にとって、隣で話を聞いてくれるダチだよ。お父さんのこととか関係なく」
シンは窓の外を眺めていた。「だから最近はYzakにまで勝手に親近感持ってる自分がいてさ。『ああYzakもこの人のこーゆーとこに振り回されてたんだろうなー』とか」
「……」
「あーあ」
シンは急にがっかりしたように溜め息をついた。「実を言うと俺、アンタがコンサートに行くって言いだしてから、ほんのちょっと期待してたんだ。Yzakが大勢の観客の中からアンタを見つけ出して、ステージから飛び降りてきてアンタのこと抱き締めたらどうしようって」

俺は絶句して、シンのむくれた横顔を見つめる。

「それは……イザークが危ないだろ」

あんな興奮状態のファンの中に飛び降りるなんて、ゾンビの群れに生身で突っ込むようなものだ。
そうでなくても高校生の頃からイザークの熱狂的な追っかけには手を焼かされたし、ストーカー化したファンのせいで危険な目に遭ったのも一度や二度じゃない。
__彼の従姉だって。
嫌なことを思い出して背筋を寒くした俺の横で、シンはぶつぶつ言い続けた。

「まぁさすがに飛び降りる云々は妄想だけどさ。Yzakがこっちを見てビックリするんじゃないかって、ライブの間ずっとハラハラしてたのは俺だけ? なに一人で観客目線で楽しんでんの。こっちはせっかくYzakの生演奏が聴けたのに全然集中できなかったんですけど。Yzak不足で不完全燃焼なんですけど」
「……それはすまなかった」

だから俺に構わず最前列で観れば良かったのに、と言いたいのをグッと堪える。

「まぁ…普通に気づかなかったんじゃないか? キラもコンサート前にイザークを動揺させるようなことは言わないと思うし」
「てゆーかさ」
シンはちらりと俺の顔を見た。「色々複雑な事情があるのは察したけど、アスランは別にYzakが嫌いで別れたんじゃないんだよな? どうだった、久しぶりに元カレを見た感想は」
「どうって……『変わってないな』と思ったけど」
「ええ?」
「ええ…? だってアイツと別れてまだ2年と4ヶ月くらいだぞ。向こうはどうか知らないけど、俺の感覚ではついこないだまで一緒に暮らしてた相手だし、それ以前にアイツは友だちで…」

雑誌やポスターの中のイザークがまるっきり知らない人間みたいなので、こないだテレビで見かけたときもだが、動いている実物を見るとむしろ安心する。

「つまんねーの。そう言えばKiraがうちに来たときも、2年以上音信不通だったくせに超あっさりしてたよな」
「…ああ、まぁ」

2年で変わってしまったこともあるが。
そう、キラのことも考えなければならない。

(ライブ中めちゃくちゃ走り回ってたけど、いつもあんななのか、アイツ。…また何かやってるんじゃないだろうな)

あのときはシンがいたので、結局クスリの入手経路を聞き出せなかった。
もはやキラひとりで解決できない段階まで来ている可能性だってある。
そうなったらバンドの今後にも関わるので、リーダーのイザークに知らせないわけにはいかない。

(困った……アイツと会ってまともに話せる気がしないんだが。でも電話は誰がどこで聞いているかわからないし。っていうか電話もしたくない。やっぱりミゲルに頼るか。蛇の道は蛇。……いやダメだ、後からイザークが知ったら絶対余計にこじれる_)

「ちょっとはジタバタすればいいのに」

堂々巡りの思考にシンの声が割って入った。

「アンタってホント、省エネ仕様ってゆーか、デリカシーに欠けるってゆーか……オトナだよな、良くも悪くも」
オトナ、と俺は自嘲した。「……シンは俺のことを随分と理性的な人間だと思ってるんだな」
「違うの?」
「俺がプロのミュージシャンになるつもりもないのに大学入学を1年遅らせたのは、イザークにこっちでふたりで暮らさないかって言われたからだよ」

シンは何も言わず、ただ目を丸くした。

「元々、ミーアとキラが高校を卒業したらイザークはふたりとセントラルへ、俺はマイウスの大学へ行くはずだった。でも俺はイザークとまだ別れたくなかったんだ。__だから先のことを考えるのをやめた。アイツと一緒なら、どうにかなる気がしてた。そんなのは、あまり理性的とは言えないだろ。本来、俺はその時々の感情に流されて衝動的に動くタイプだよ。__子どもの頃からずっと変わらない」

首に巻き付いた華奢なチェーンを、無意識に指でたどっていた。
ラクスのペンダント__あんな大事なものを置いてきてしまうなんて、よっぽど頭が回っていなかったのだと思う。
彼女は『捨てても構わない』と言ったけれど、俺が捨てられないことは見通していたのだろう。そういう人だったから。

『ああ、イザークの、あのペア物のペンダント? うん、付けてたのはテレビに出たときだけだよ。普段持ち歩いてるかなんて知らないけど、僕が見たのはそのときだけかな』

(キラの言うことはいまいち当てにならないんだよな…)

「じゃあ、アスランは」
不意にシンが訊いた。「Yzakによりを戻そうって言われたら、また付き合うの?」
考えるだけで辟易して俺は答えた。「……それをやるとジタバタどころか泥沼にハマって身動き取れなくなるから、アイツに会いたくないんだよ」
「うん、意味は全然わかんねーけど、アンタにも苦手分野があるのはよくわかったわ」

家の近くでバスを降り、マンションのエレベーターに乗ったとき、ふとスマホを機内モードにしていたことを思い出した。

「お腹すいたなー。レイが夜食用意してくれるって言ってた。何だろう、楽しみだね」
「俺はいいよ。疲れたから早く寝たい」
「そう? じゃあ先にシャワー使いなよ」
「悪いがそうさせてもらう」

いろんな意味でハードな一日だった。
明日は昼まで寝ていたいと思っていたら、スマホに1件のメッセージ通知が届いた。
ミゲルからだった。

『お疲れ。楽しかったか? アイツにメールしとけよ』

(……わかってるよ)

やらなきゃと思ってることを他人にせっつかれると、すごくイラッとする。

(はぁ……メール……イザークにメールか。何て書けばいいんだ。普通に『元気か?』でいいのかな。一応元気そうだったけど。もしくは『ライブよかったよ』……?)

思わず助けを求めて、斜め前に立つシンを見る。彼はさっきから何か口ずさんでいた。
Andra Dayの"Rise Up"__今夜ミーアが特別に歌った、懐かしのヒット曲だ。
きょう誕生日を迎えたキラへのプレゼントという演出で、イザークのピアノはこのために用意されたものだった。

『痛みにも負けず 私は立ち上がる 何度だって』__

セントラル・ホールでミーアの伸びやかな歌声を聴きながら、故郷のディセンベルで、5人でバンドをやっていたときのことを思い出していた。
ミーアとキラは昔からR&Bやヒップポップも大好きで、イザークの目を盗んでは名曲をカヴァーして遊んでいたものだ。
キラが適当にギターを弾き、ミーアが歌って、すぐにミゲルも調子を合わせ、イザークは呆れ顔をしつつけっこう面白がっている。
ヤニ臭い地下スタジオや、海沿いの24時間営業のダイナー、落書きだらけの旧倉庫街が、俺たちの活動拠点だった。
あの何にも代え難い場所で、俺の大事な人たちが笑っているのを見るのが好きだった。

(……できないな。全部無かったことになんて)

覚悟を決めてアドレス帳を開いたとき、エレベーターが玄関に到着した。