35 -Kira-

僕に英才教育を受けさせるよう小学校の教師に勧められたとき、両親は喜ぶより困惑した。
ヤマト夫妻が僕の生物学的な親だったなら話は別だったかもしれない、でもそうでない彼らに僕が似ていないことを強調するのは酷というものだ。お互いを家族に迎えて幸せになりかけていたのに、なぜ皆んな僕たちを放っておいてくれなかったんだろう?
僕はふたりを不安がらせたくなかったし、勉強ばかりして友達と遊べなくなるのも嫌だったので、普通に公立の学校へ通い続けた。
中学生になって友達とバンドを始めた。両親は僕がプログラミングよりもギターにのめり込むのを見て安心したようだった。ディセンベルでは、子どもがロックミュージシャンに憧れるのは、サッカーに夢中になるくらい普通のことなのだ。

そんなわけだから、僕には音楽で食べていく覚悟なんてさらさらなく、1学年上のイザークに声をかけられたときも、最初は断る気満々だった。
何せイザークは校内一の問題生徒で、教師を精神的に追い詰めて病院送りにしたとか、夜中の学校に侵入して教室をめちゃくちゃにしたとか、悪い噂が絶えなかったのだ。
……にもかかわらず、平和主義の僕がもっとも関わり合いを避けるべき男となぜ未だに共同戦線を張っているかというと、お互いの才能だけは認めざるを得ないからだった。
だけどそれも近ごろ限界に近づきつつある。

「そしたらイザークのやつ、何て言ったと思う?『その服は着る人間を選ぶからやめとけ』だよ! 僕の童顔を遠回しにバカにしてさー、ああいう態度だからネットに『ブスに人権はないと思ってそう』とか『Lacusを自分好みに整形させた』とか書かれるんだよ。しかも前者はあながちハズレじゃないっていうね!」
「俺は大学に行きたいんだけど、おまえいつ帰るの」

僕をベッドに座らせ、アスランはグランドピアノの椅子に腰掛けていた。ティーカップ片手に、さっきからしきりに腕時計を気にしている。

「僕やスタッフは最早イザークの兵隊アリだって話をしてるんだよ。それもこれも、デビュー目前にきみが逃亡してイザークが独裁者に逆戻りしたせいなのに、この期に及んで僕より木星探査ロボットのほうが大事なわけ?」
「何を言ってもクスリをやる言い訳にはならないぞ。おまえが依存症になったのは俺のせいでもイザークのせいでもない」

さっきまで僕を吊し上げていたのとは別人のように涼しい顔でアスランは言った。(ポケットに御守りがわりに持っていたひと包みはトイレに流されてしまった。)

「もー、だからハマるほどやってないってば、疑り深いなぁホント。僕なんかイザークよりよっぽど健康的だよ、アイツ最近またタバコの本数増えてるし、ろくに寝てないみたいだし……誰かさんが帰って来てから」
アスランはしれっと話を戻した。「イザークは言うほど面食いじゃないし外見だけで人を評価するような奴でもないだろ」
「前に『アスランのどこが好きなの』ってアイツに訊いたら『顔』って即答したけど」

本人は照れ隠しで言ったに決まっているが、ついふたりの仲を邪魔したくなるのが僕のサガだ。

「そりゃあ人並みに好き嫌いはあるだろうし、俺の顔が半分焼けただれていてもイザークが俺と付き合ったかどうかはわからないが」
「…顔を隠して日陰で生きる元美人っていうのもグッとくるよね」
アスランは僕の性的嗜好なんか知ったこっちゃないというふうに続けた。「イザークが人の容姿に関してちょっと辛辣になるのは、自分があの外見でずっと苦労してきたからだよ。生まれてこのかた見た目ばかりもてはやされて、アイツがいちばんうんざりしてるんじゃないか? その反動というか、周りがいつも無意識にアイツにやっていることを意図的にやり返しているだけで…」
「……ふーん。相変わらずイザークのことはよくわかるんだね」
「おまえの考えてることは昔からさっぱりわからないけどな」
「えー? 僕はただ欲望に忠実なんだよ。きみと違って聞き分けないから相手のためを思って身を引いたりしないし、欲しいものは全部手に入れたいだけ」
「とにかく、体は大事にしろよ。俺と違っておまえは協調性があって普通がどうとか気にするぶん、人一倍疲れるだろ」
「まぁ…きみよりは社交的で常識もあるけどね」

非凡とか次元が違うとか言われがちな者同士、気楽なのは確かだ。
何やかんやで、僕はアスランと一緒にいるときがいちばん自分らしくいられる気がする。

「ねぇ、今晩泊めてよ」
「ええ?」
「今日はもう予定が無いんだけどさ、最近どこに行っても動画撮られるから、部屋にこもってゲームするしかないんだ。部屋って言ってもホテルだし、いまいち落ち着かなくて」

本当は僕の気が散っていたせいでイザークに目障りだから打ち合わせに来るなと言われたのだが、自分に都合の悪いことは黙っておく。

「ホテルって……自宅はそんなに遠いのか?」
「いや、都心部だけど、2ヶ月は帰ってないかなぁ。マンションの前まで押しかけるファンやらパパラッチやらで、近所からクレームが来ちゃって。何度引っ越してもダメなんだよね」
「酷いな。じゃあメンバー全員ホテル住まいなのか」
アスランはちょっと心配そうに訊いた。
「ミーアと僕だけ。イザークとシホはメディアの露出も少ないし、ほら、その辺はうまくやるでしょ、あのふたりは」

喋りながら、そういえばイザークがベイサイドのアパートを引き払っていない件に思い当たったが、いま持ち出していい話題なのかどうか。

(ってか、そもそも別れてなかったとか?)

昔からアスランとイザークのあいだのことは僕にはよくわからない。
ただでさえアスランは自分の交流関係を語らなかったし、身の上に制約が多すぎて、友達に何でも打ち明けてくれるという感じじゃなかった。
高1のころ彼は僕を介して知り合った女の子の何人かと付き合っていたけど(たぶん)、どれもカジュアルな関係で、いつの間にか終わっていた。
イザークの告白にOKしたときも、アスランが実のところ何を考えているのか、僕には全然わからなかった。(内心、本当はやっぱりミゲルとデキてるんじゃないかと疑ってすらいた。)

だからこそ、アスランが高校を卒業してもイザークと別れないで一緒にセントラルに来たのはかなり意外で、ちょっと嬉しくもあったのに。
結局僕もイザークも裏切られて、だけどこうして会ってみると、アスランは何も変わっていなくて。

「おまえ、マスコミの尾行がついてるのを承知でフレイと会うつもりだったのか?」
「彼らはフレイがサイ以外の男に笑いかけるたびに二股疑惑で騒いでるよ」
少し食欲も出てきて、自家製のバナナケーキを頬張りつつ僕は答えた。「発想が幼稚園児の連中にいちいち遠慮していられない。…まぁきみが彼女を匿ってるなら、とりあえず安全だろうから今日のところは引き下がるけどさ。お父さんを亡くして結婚が延期になって、いちばん辛いのは彼女なのに、何でこれ以上赤の他人に苦しめられなきゃいけないのかな。訴えるべきだよ、こんなの」
「相手にしないのがいちばんだと思うが。それに、フレイは叩かれるほど燃えるタイプだろ」
「そうかもしれないけど、やっぱり知らない相手だろうが悪意を向けられたら悲しいし、男の僕だってちょっと怖いよ。実際ファンにしつこくストーキングされたり、挙げ句殺された芸能人だっているんだから」
「そうだな」
アスランは少し考え直したように頷いた。「おまえの言うとおりだ。大公一家は何を考えてるんだか。仮にもプリンスの婚約者にボディーガードもつけないで」
「僕はむしろ彼らが彼女を自殺にでも見せかけて暗殺するんじゃないかと気が気じゃないよ。いっそこの縁談は無かったことにするのが誰にとってもいちばんいいんだ」
「フレイはプリンセスになることを諦められていないんじゃないか?」
「僕が説得する」
「……キラ。フレイは散々おまえの優しさに甘えておきながら他の男と婚約したんだぞ」
「お父さんの命令でね」
「その父親が死んで、後ろ盾をなくした心細さとマリッジブルーが重なってまた現実逃避してるだけだ。彼女の悪い癖だよ、自分が困ってるのを知ったら必ずおまえが助けに来ると思ってる。これ以上関わらないほうがお互いのためじゃないのか?」
「口を出すなんてきみらしくないな。高校のときは僕たちのことを応援してくれてたのに」
「おまえたちが勝手に俺をメッセンジャーに使ってただけだ。イザークにも俺が焚き付けたように言われたけど、俺は最初にちゃんと忠告したぞ、『おまえの手に負える相手じゃない』って」
「そうだった。きみって、そういうとこがあるよね」

いつも少し引いた立ち位置から見ているから、実は色んなことに気づいてるくせに、結局他人の問題だから放っておくのだ、彼は。

「ミーアだって……きみはミーアがLacusの名前を使うのを良く思ってなかっただろ。お姉さんを知るきみの言うことならミーアも聞き入れたかもしれないのに、きみは黙って彼女がラクスさんの生きるはずだった人生を『再現』しようとするのを見てたんだ」
「……ミーアがどうかしたのか?」
「いや、うちのお姫様がどうかしてるのは元々なんだけどね。何かもう最近、痛々しくって見てられないってゆーか」
「……」

アスランは何やら難しい顔で宙を睨んだ。

(へえ……やっぱり心配なんだ、ミーアのこと)

アスランは僕と違って、言うなれば天才の純粋培養だ。ちょっと普通じゃない家に生まれて、周りと比べられることもなく、学校なんか無理に行かなくても好きなことだけを幾らでも学べる環境で育った。
たぶん、彼には他に考えることが多すぎて、日常の物事にいちいち心を動かされている余裕が無いんだと思う。
正直僕はハイスクール時代、アスランはミーアの存在をたいして気に懸けていないんだと思っていた。だけど僕の目に映っていたより、実態はもう少し複雑だったようだ。

「ねぇアスラン。きみはミーアの出生の秘密を知ってたんでしょ。彼女が病気のお姉さんのドナーになるために、体外受精で生まれた『救世主きょうだい』だったこと」
「……」

当たりだ。アスランの微妙な表情の変化を見逃さず、僕は確信する。

「本人がフレイに言ったらしいんだ、自分のことを『出来損ないの救世主』って。たまたま読んだSF漫画がそういう話で、ピンと来たんだよね。その未来世界では自分のクローンを何体も冷凍保存しといて、本体が事故に遭ったり病気にかかると、クラウドから記憶を同期して体を乗り換えるんだ。面白いのは、何かの手違いでひとつの体にふたりぶんの記憶が同期されちゃって…」
「キラ、脱線してる」
アスランは気難しく口を挟んだ。「それにミーアはクローンでもデザイナーベビーでもない。彼女の両親は、単にラクスに適合する受精卵を選んだだけだ」
「でも、国内じゃ違法だよ。幾ら子どものためだって、体を傷つける前提で『スペア』を作るなんて、不老不死のためにクローンを作るのと生命倫理的には大差ないと思うな」
「少なくとも、ミーアは何も悪くないだろ」
「ミーアはお姉さんが死んだのは自分のせいだと思ってるんじゃないの? だから自己肯定感が異常に低いし、Lacusになりきることに執着してる」
「……何でそう思うんだ?」

万事を合理的に考えるアスランには理解しがたいロジックである。

「えーと、つまりね。お姉さんを救うことが至上目的だったとしたら、ミーアはそれに失敗したわけでしょ。お母さんはラクスさんの死から立ち直れず海外に移住して、お父さんもミーアを残して自殺した。ラクスさんが死んだら『ミーア』はもう要らなくなった。みんなが必要としていたのはラクスであってミーアじゃなかった__あくまでも彼女がどう感じてるかって話だよ」
「……イザークはラクスと面識がない。アイツの前でミーアが故人を演じる必要はないだろ」
「うん。でも子どもの頃はともかく、いまイザークが彼女の側にいるのはバンドのためでしょ。ミーアが歌姫としての_理想像であるLacusとしての自分にしか存在価値を見出せないのは無理ないと思うけど」

この2年間、ミーアはずっと崖っぷちだ。皮肉なことにそれが彼女の歌をより魅力的にしている。

「いちおう訊くけど、きみは初恋の人を助けられなかったミーアを恨んでないんだね?」
「まさか」
アスランは困惑顔で答えた。「むしろ、不遇な子ども時代を送ったぶん彼女には人一倍幸せになって欲しいよ」
「きみが言うかな、それを。彼女からイザークを取っちゃった張本人のくせに」
「イザークにだって好きな相手を選ぶ権利はあるだろ。アイツが彼女の想いに答えられる可能性はゼロだったんだから、それはしょうがないじゃないか」
「主観が入ってないって言い切れる? そもそも男と女のことなんだから、ゼロではないでしょ。僕は常々思ってたよ、いっそイザークが折れて一度くらいミーアを抱いてあげれば、彼女も気が済んでブラコンを卒業できたかもしれない。そしたらこんなに拗れなかったのにさ」
「畜生道って知ってるか、キラ」

アスランの言葉はいささか場違いに響いた。

「……近親相姦のこと? いや、だってあのふたり、本当のきょうだいじゃないし」
「でも、本当の親きょうだいと性交したって雷に打たれるわけでもツノと尻尾が生えてくるわけでもないだろ。イザークがどういう意味を持たせるのか、問題はそこだけだ。たぶん、こればかりは自分でもどうにもならないことなんだよ」

僕はアスランの言ったことについてしばらく考えを整理した。

「それってイザークのお父さんが姪を愛人にしてたことと関係ある?」
「部分的には」
とアスランは認めた。「義理の姪なんだけどな。ディアヌ・ジュールは伯爵夫人の_イザークの母上の、亡くなった兄上の娘だから」
「え? てっきりお父さんの方の親戚筋だとばかり。だってイザークのお母さんは一人娘だから婿を取ったんでしょ」
「正確には、歳の離れた兄上がいたが、先代の伯爵が存命の内に亡くなったんだ。……知らなかったのか、キラ」
知らないよ、と僕は内心憤慨する。「だって僕には上流階級の横の繋がりなんて無いし、ミーアもフレイも肝心なことをぼかして話すし、噂をつぎはぎして想像してただけだもん。待ってよ、じゃあ愛人って、イザークの母方の従姉なの?」
「そうだよ」
この際正しく事情を知っていたほうがいいと判断したのか、アスランはさらりとした口調で語った。「イザークより4つ年上で、15歳のとき身寄りをなくして伯爵一家に引き取られたんだが、半年も経たないうちに伯爵の愛人に収まった」
「それは……イザークがグレたのもちょっとわかるな」
「それだけじゃなかった。ディアヌは_ジュール家特有の銀髪碧眼の美人なんだが_どうもイザークに気があったらしい」
「へ?」
「たぶんそれがイザークが家を出たいちばん大きな理由だ。一度、彼女がイザークを訪ねて来たけど、かなり険悪な感じだったな」
「……何それ、まさかイザークもその従姉と寝てたってこと?」

中学時代のイザークの闇の深さを考えれば、充分あり得る話だ。

「さあ……実際どういう関係なのかは、訊かなかったから俺は知らないが」
「訊こうよソコは! 無関心にも程があるよ!」
アスランは僕の剣幕に戸惑って目を瞬かせた。「いや、気にはなったけど。彼女が帰ったあとのイザークの機嫌が底辺で、迂闊なことは言えなかったし、よっぽど触れられたくないんだと…。だけど、アイツの女遊びは誰かに対する当てつけだったような気がしてたから、その相手があの従姉だと考えると納得がいくんだ」
「…あー、イザークって粘着質だもんね」
「と言うか、潔癖だから、従姉に少しでも欲情した自分を許せなかったんだろうな。他の女性と付き合っても従姉の面影を払拭できなかったから俺と寝てただけで、アイツは根っからの同性愛者じゃなかった。__ミーアのことにしても、本当の身内以上に大事にすることがディアヌへの強い意思表示だったんじゃないか?」
「意思表示…?」

アスランは冷ややかな微笑を浮かべた。

「『おまえなんか死んでも愛さない』__っていう」
「……」
「まぁ、ディアヌもあれ以来俺とイザークの前に現れなかったから、ザラの人間を敵に回してもイザークが欲しいと思うほど本気じゃなかったってことだろ」

アスランはその従姉を歯牙にもかけないのだろう。
イザークが彼より彼女を選ぶなんて考えもしないのか、そうなったらそうなったで構わないと思っているのか。

(地元の仲間は皆んなミゲルを怖がってたけど、きみのほうがずっと怖いよ、僕は)

ぐうぅ、と僕の腹の虫が大きく鳴いた。
僕のバツの悪い顔を見たアスランは「あはっ」と声を立てて笑った。

「そのバナナケーキ、全部食べていいぞ。俺は要らないし」
「うう…ありがとう。考えたら僕、昼ご飯食べてなかったよ」
「なら、下に行ってレイに何か作らせるか。ちょうどお茶の時間だし」

アスランがティーセットの乗ったトレイを持って、僕がドアを開ける。

「そういえば大学は?」
「おまえを残して出かけられないだろ」
「僕が会いに来て嬉しいくせに、素直じゃないな」
アスランは階段を降りながら、やたら大きなため息をつく。「……おまえのせいで予定がめちゃくちゃだよ」

相変わらず小言は多いけどアスランは結局僕に甘い。
もし今、僕が彼を後ろから突き落としたら、彼はもちろん激怒するだろうけど、そのことで明日から僕への態度が変わったりはしないだろうという確信がある。

「…むしろ僕が転げ落ちたほうがきみにはダメージ大きいか」

アスランを本気で怒らせたいなら、ターゲットにすべきは本人でなくその周りのごく近しい人間だ。
例えばミゲル。イザーク。__それに、ミーア。

「何か言った?」
アスランは階段の途中でこっちを見上げていた。

(あれ…いま何か引っかかったような)

今の今まで、僕はアスランが2年前に結局本来の進路を選んだのだと思っていた。集団訴訟騒ぎやミーアのお父さんのことはきっかけに過ぎなくて、彼は最初からバンドを抜けるタイミングをはかっていたんじゃないかって。

……でも、そうじゃなかったとしたら?

「キラ?」
「あ、ううん、別に」

そう、例えば、アスランがイザークと同じくらいミーアのことも大事に思っていたという前提で、最初から考え直す必要があるのかもしれない。

「ねぇ、そういえばきみのギターは? 部屋に見当たらなかったけど。久しぶりにちょっと弾かせてよ」
「ああ……マイウスに行くとき、うっかりベイサイドのアパートに忘れてきたんだ」
「忘れてきたって…わざわざ整備工場でアルバイトして買ったお気に入りでしょ?」
「そうなんだよ」
アスランは苦笑した。「馬鹿だよな。他にもすごく大事なものを置いて出てきてしまってさ。取りに来いと言われてるんだけど、なかなか」
「え? …イザークに?」
「あ…いや、直接聞いたわけじゃなくて……ミゲルにアイツがそう言ったって」
「何だー、僕に内緒で連絡取ってるのかと思って焦ったよ」
「ツアーが終わったらメールしようとは考えてたけど、アイツまだ怒ってるみたいだから嫌なんだよな」
「いや、僕も怒ってるけどね。時効だと思ってるんなら蹴り落とすよ?」
「キラの好きにすれば。落ちて怪我したらコンサートに行かない口実ができるし」
アスランはあっさり僕に背を向け、数歩階段を降りたところで、思い出したように言った。「ギターならシンに借りられると思うぞ。俺の部屋の隣だ。ついでに下でお茶にしようって言って来てくれるか?」



36 -Yzak-

その晩のセントラルは街中お祭り騒ぎだった。地元のサッカーチームが欧州リーグで優勝したというので、熱狂した群衆が広場や海岸通りに繰り出し、車という車はクラクションを鳴らし、ついには花火まで打ち上がる始末。
たった一発の銃声は、外界の喧騒に紛れてしまったのだろう。ずいぶん時間が経った気がしたが、この古いモーテルの部屋に人がやって来る気配はいっこうに無かった。
薄い壁の向こう側で歓喜に沸く人々は誰ひとりとして、ここにある冷たい死と俺たちの絶望を知らない。
__まだ、誰にも気づかれていない。

「アスラン」

何を言おうとしたつもりもなく、ただ自分だけが世界から置き去りにされていないことを確かめたくて俺は呼んだ。

動かなくなった男の近くにひざまずいていたアスランは、湯気のように音もなく立ち上がった。茫洋と部屋を見回したあと、彼は床の上でミーアを抱き抱えている俺に目を留めた。
アスランはしばらくこっちを見つめていた。垂れ下がった右手には拳銃が握られ、…イザーク、と呟いた顔は、処刑人の前に引き出されたジェーン・グレイのサテン織のドレスよりも白かった。

「俺たち、彼女にどう償えばいいんだ……?」



***



「キラに八つ当たり?」

打ち合わせの合間、幸いラウンジに誰もいなかったので、一服しようと思ったところだった。
俺はひとりになりたかったのだが、シホは構わず斜向かいのソファーに座る。真鍮製のシガレットケースを取り出す彼女に、仕方なくライターの火を貸した。
身をかがめた彼女の栗色の髪がするりと肩を滑り、ミゲルのと同じオーデコロンが香った。お決まりのリトルシガーを燻らせて、彼女は口を開く。

「別のことで頭がいっぱいで集中力を欠いているのはあなたも同じだわ。そんな調子じゃ、ツアーが終わる前にミーアに気づかれるわよ。彼女、いつも言ってるもの_『イザークはアスランのことになると格好つける余裕なんか無くなる』」

ミーアは昼から撮影で別行動だった。
シホは当然ミゲルからアスランがこっちに帰って来たことを聞いているはずなので、未だにミーアに伝わっていないのは、アスランの意向を汲んでのことだろう。
……どうせあのバカは、自分が泥を被って収まるならそれがいちばんいいとか思っているに違いない。

自虐を込めて俺は言った。「こっちがなりふり構ってるあいだに10歩も100歩も先に行くヤツを恋人に持つと、こうなる」
「あなたはちょっと余裕がないくらいのほうが魅力的だけど、アスランが絡むと判断力が鈍るのは確かね。__こないだ、ディセンベルでミーアを父親の墓参りに行かせたでしょう」
「…ああ。その件なら何も問題ない。アイツは地元に帰ると必ず墓地へ行くんだ」
「だけど時期が悪すぎるわ。ミーアに何かあればツアーは最悪中止もあり得るのに」

不吉なことを平気で口にする女に俺はいささか気分を害した。
言われるまでもなく、ミーアが歌えなくなればうちは全機能を停止せざるを得ない。多方面への影響やら対応やら諸々考えただけで吐き気がしてくる。

「だから、そうならないように最善を尽くしている」
「だといいんだけど」
シホは言葉に含みを持たせた。「父親が自殺すれば誰だってショックを受ける。記憶が混乱しても無理はない。でも2年以上前の話だし、ミーアもさすがに父親の死を受け入れているでしょう。なぜアスランは、姫をこのままいばらの城で眠らせておこうとするのかしら」
俺は咥えっぱなしだったタバコに火をつけた。「…まぁ当然、ミゲルも納得してないんだろ」
シホはふふ、と笑った。「彼を心底イラつかせることができる人間はアスランだけよ。この件では未だにギクシャクしてるもの、あのふたり」

言わんこっちゃない。
あのときアスランが定石通りミゲルを『使って』いれば、こうして俺が尋問されることもなかったのだ。

「アスランがミゲルに喋らないことを俺から聞き出そうってんなら、時間の無駄だぞ」
「そんなつもりじゃないけど」
と、シホは言った。「ウィリアム・キャンベルの死について私は部外者だし、あなたたちが秘密を墓まで持っていくと決めたならそうすればいい。でも、ミゲルにミーアのことを頼まれた以上、私にはあの子を守る責任があるのよ」
「おまえもキラと同じで、俺がミーアに厳しすぎると言いたいわけか」
「と言うより、厳しくなりきれてないのが心配」
「……結局おまえらは俺を悪者にしときたいだけだろ」
「だって王子様になる気はないんでしょ」
シホは攻撃の手を緩めない。「義理堅いのもご立派だけど、ミーアからしたらあなたほど残酷な男っていないわよ。だいたい、昔からあなたとミーアの間には明らかな力関係があるんだから、キラが彼女の肩を持つのは当然でしょうが。……そうね、私もどちらかと言えば彼女の味方かな」
シホは何食わぬ顔で付け足した。「ミーアはいい子よ。私が同性を褒めるのって珍しいけどね」

ミーアがミゲルと寝ていたのを百も承知のくせに、と思ったが口にはしなかった。
ミゲルが自分の女を“ソランジュ”に寄越した理由が、ミーアをそばで見張らせるためだったとしても、姫のお守り役に徹するシホに俺は頭が上がらなくなっている。

ミーアは、事件の真相を覚えていない。
およそ2年半が経った今も、彼女は父親が自らの頭を撃ち抜いて死んだと思っている__と言うか、そう信じ込んでいる。子どもの頃から、辛い目に遭うたびに彼女は空想の世界に閉じこもって自分を守ってきた。偽りの幸せも頑なに信じればいつか本物になるかのように。
今となっては、陽気に振る舞うミーアの何が嘘で何が本当なのか、俺にはわからない。この状態がアイツにとって善いことなのかどうかも。
わかったところで、どうにもならないのだ。王子様になってやれなかった俺に、彼女にかけられた呪いを解く力があるはずもないのだから。

「しかし、あなたも苦労が絶えないわね、イザーク。そういう星の下に生まれたのかしら」
「……」

この東洋系の美女に難点をつけるとしたら、それはミゲルのそばで要らないことまで見聞きしていることだ。(元不良仲間なので、俺の過去の女性関係も全部知られているし、俺がアスランに片想いして半年くらいモタモタしていた時期もリアルタイムで見物されていた。)
今さら彼女に格好つけても得がないので俺は率直に言った。

「生きてて運がいいと思ったことがあまりない」

口にすると侘しいが本当の気持ちだ。
生まれてこのかた楽に手に入ったものなんて無かった。母にはジュール家の嫡男として俺を産んだ見返りを求められ続け、父には俺が反抗をやめるまで何日も食事を抜かれた。たったひとりの従姉は、俺たちに奪われたものをすべて取り返すまで気が済まないらしい。かつて妹同然だった大切な少女はいつの間にか女になって俺を恨んでいるし、俺が初めて真剣に付き合ったヤツは史上最大の訳アリ物件ときていて、捕まえておくのは至難の業だ。

シホは哀れがる目で俺を見た。「何もミーアと政略結婚しろなんて言わないけど、ちょっと自分をいじめすぎじゃない? 私があなたならアスランみたいな『いわく付き』とは最初から極力関わらないわ」
「そういうのは高校のとき散々悩んでとっくに突き抜けてる」

本来、俺とアスランはまったく別々の人生を歩んでいて、あんな場所で出会うはずじゃなかった。
キラが連れて来たアイツを見て、そこにいるのにいないようなヤツだと思った。一瞬、目が合ったと思い__何となく心がざわざわして、何日も落ち着かなかった。
今思えばあれは予兆だ。それからそう遠くない未来に、アスランは俺の当初の人生設計を大きく狂わせる存在になる。

「思い通りにいかないくらいが、あなたにはちょうどよかったのかもね」
シホはラウンジの壁を埋め尽くすアーティストたちの写真やらサインやらを眺めていた。「だって、あなたがアスランを好きな理由って根本的には、彼が他の子と違って簡単にあなたに靡いたりしないからでしょう」
「……どうだろうな」

的はずれではないにしろ、他人にこうあっさり分析されると複雑な心境になる。
何故か人はよくこの質問をするが、誰かを好きになる理由をひとことで説明しろというほうがナンセンスだ。

「『共に一夜を過ごせるなら死んでもいい』と思うくらい、誰かを好きになれるなんて、それだけで生まれてきた意味があると思わない?」
シホは陶然として言った。「恋愛関係の始まりは好くか好かれるか、そのどちらかだけど、追うほうが絶対たのしいのよ。昔のあなたは、誰と一緒でもいつも独りでいるみたいな目をしてた」
「…おかげさまで退屈とは無縁だが、たのしいかどうかは疑問だ」

最近ではアスランのことを考えれば考えるほど、去来するのは怒りと後悔ばかりだ。

あの花火の夜、ミーアは俺とウィリアムの会話を聞いた。
気づいたときには銃の引き金が引かれ、安宿の壁にウィリアムの血が飛び散っていた。ミーアは気を失い、俺たちに迷っている時間はなかった。あのときの決断を後悔はしていないし、アスランに訊いてもそれは同じだろう。
俺たちは罪を共有したはずだった。
だがそう思っていたのは俺だけで、アスランにとっては彼ひとりが引き受けるべきものだったのかもしれない。

(いや……結局、俺がそうさせたのか)

__最低なのは、俺がこの件でいちばん腹を立てている相手が自分でも、すべての元凶をつくったウィリアムでもないということだ。

葬式のあと、アスランが出て行くまで、アイツとは事件について話をしないままだった。ウィリアムの名は俺たちの間で禁句となり、まるで俺が警察に話したことが全てだったかのように、戻ってきたうわべだけの日常。

ウィリアムの許されぬ行いを考えれば、こんなことを言うべきでないのはわかっているが__彼は、子どもの頃に俺が唯一信頼できた大人だったのだ。

あの男の悪魔のような一面を知ってからも、俺は何かの間違いであって欲しいと思い続け、彼が死んだ夜からずっと、心のどこかでアスランに対して怒っていた。__アイツがウィリアムとの因縁を俺に黙っていたことや、それを含めて『向こう側』の人間関係からいちいち俺を遠ざけることについて。

アスランは俺が今でもアイツを許していないと思っているのかもしれない。
だからといって俺に対して説明責任があるとも許されたいとも思ってなさそうなのは、すごくアイツらしいが。

(許されたいのは俺のほうだ)

一昨年の1月にアイツが出て行ってから、考える時間だけは腐るほどあった。
俺たちはお互いを知っているようで知らない。…知ろうとしなかった、と言うのが正しい。
だが、本気でアスランと一緒にいようと思うなら、ウィリアムの件を含めて、もう見て見ぬふりはできないのだ。
ただでさえ俺は一度、方法を間違えた。二度目は失敗できない。大学へ通うアスランは比較的自由な生活を許されているようだが、それも卒業するまでだろう。タイムリミットはすぐそこだった。

廊下の向こうから、スタッフが呼びに来る気配がした。
とにかく今は、明後日の最終公演を成功させることが先だ。
はやる気持ちをタバコと一緒に灰皿に押し付け、俺は立ち上がった。

「ミゲルの顔は立てただろ。ツアーが終わったら、そろそろ俺の好きにさせてもらう」

ここまで漕ぎ着けるのに2年以上かかってしまったが、ようやく仕事のほうもひとつ区切りがつけられる。
ここらでアイツを一発殴りに行ったって、バチは当たらないだろう。…アイツがおとなしく俺に殴られるかどうかは別として。

俺の背後で、ほら、とシホは笑った。「やっぱり、たのしいじゃない?」