不動産屋から電話がかかってきたのでレストランの外に出たら、雨はしとしと降っていて、肌寒かった。
アプリリウスの5月は北の故郷より断然暖かいけど、いかんせん天気が移ろいやすい。
最初こっちへ来た時、なぜ南の人はみんな挨拶がわりに天気の話をするんだろうと思っていたけど、要するに一日のうちに晴れたり降ったり風が吹いてきたり、空模様のヴァリエーションが北部よりも多いのだ。
電話は数分で済み、スマホの時計を見たら、店に入ってそろそろ1時間だった。
(……アスラン、やっぱ様子が変だったな)
今日は必要以上に俺を構うので気になった。普段はもっと放任主義なのに。
よっぽどミゲルとふたりになりたくないようだし、このまま俺が帰ったらアスランは困るんじゃないだろうか。
(しかし俺の元不良の勘が告げている。ミゲルは敵に回したら絶対ヤバい人だと…)
迷いながら店内に戻ろうとしたとき、またスマホが着信を知らせた。
相手はルナマリアだった。
《え、アスランの同郷? 名前は?》
ルナはミゲルのことを詳しく知りたがった。
「どんな人って、うーん、堅気には見えないな。カッコいい人だよ。高そうなスーツ着こなしてて…」
《背が高くてさらっとした金髪で、一見礼儀正しいけど眼光鋭い感じね》
まるで見てきたように言い当てられて、驚いた。
「まさしくそんな感じだけど、何でわかるの?」
するとルナは、俺の無知をバカにするというより嘆かわしそうに溜め息をついた。
《シンってホントに、アスランから何にも聴いてないのね。幾らノウェンベルの田舎出身でも、アナタも北部人でしょうに》
「…‥悪かったな、田舎者で」
《アスランの名字で気づかなかった? 彼のお父さん、あのパトリック・ザラよ》
突拍子もない話だ。
経済新聞なんか読まない俺でも、さすがにその名は知っている。ディセンベルに本社がある大企業のトップで、過激なナショナリストってことくらいは。
「あ…はは、なに言ってんだよ、ルナ。確かにアスランのファミリーネームはザラだけど、…そんなわけ…」
ない、とは言えないことに気づく。
__だって俺は、ルナの言う通り、アスランのことを全然知らないじゃないか。
《ちなみにミゲル・アイマンは、ザラ氏お抱えのマフィア一家の跡取り息子よ。まぁ今のアイマンは表向き、ちゃんとした民間軍事会社の経営者だけど》
「…マフィア…」
俺が黙り込んだのでルナは勝手に話を続けた。
《パトリック・ザラの息子ってね、社交界にもマスコミの前にも滅多に現れないから一般には無名だけど、科学技術の分野では知る人ぞ知る神童だったのよ。私も最初は偶然だと思った。だって、まさかそんな有名人が身近にいると思わないじゃない。でも、ディセンベル出身だし、同姓同名だし、やっぱり気になって調べてみたのよ。そしたら、ビンゴだったわけ。ネットで顔写真を探すのに苦労したけど、ちょっと前の記事を見つけたから、リンク送ったわ》
言われるままに届いたURLをタップした。
飛んだ先は出版社のニュースサイトだった。ニュースと言っても、芸能人やセレブのゴシップがコンテンツの9割を占めるような、普段俺が敬遠する類のサイトだ。
何かの祝賀パーティで撮られた写真に、確かにアスランらしき人物が写っている。日付を見ると6、7年前の記事で、まだ青年というより少年の印象だったが、間違いない。
幼さの残る中性的な顔立ちはさぞ周囲の目を惹き付けただろう。惜しむらくは人形のような無表情だ……今の彼のほうが色気というか愛嬌があって、血の通った感じがする。
《一緒に写ってるのはピアニストのニコル・アマルフィよ。ニコルが新人賞を獲った曲を初恋の人のために書いたことは本人が色んなとこで語ってるんだけど、その相手が幼馴染のアスラン・ザラじゃないかって噂があるの。ニコルはバイセクシャルを公言してるからね》
「……初恋?」
アスランの隣で優雅に微笑んでいる彼には、見覚えがあった。
100年に1人の逸材と言われる、世界的に有名なピアニストだ。タキシードの似合う爽やかな美青年で、いま若者のあいだにちょっとしたクラシックブームを巻き起こしている。
《もちろん、ただのネット上の流言だけど。あ、でも、アスランが子どものころピアノコンクールで何度も上位入賞していたのは事実。__彼、いわゆるギフテッドなんだって。大学を出たらお父さんの会社の研究開発部門に入ることが決まってるらしいわ》
にわかに信じがたい話ばかりだったが、思い当たる節もあった。
(だからあんなにピアノが上手なんだ…)
色々訳アリな空気は感じていたから、ぶっ飛ぶほど意外かと訊かれると、実はそうでもない。
北部に名を轟かせるザラ家の次期当主ともなれば、きっと桁違いの大金持ちだ。
もしかして、アスランが自分のことを全然話さないのは、親がいなくて苦労してきた俺に気を遣っている部分もあるんだろうか。
「ごめんルナ、アスランたちを待たせてるんだ。また後で話せる?」
《あ、待ってよ、ここからが本題なのに》
「いや、もう充分お腹いっぱい…」
《ニコルに限らず、ネットで調べただけでもザラの御曹司と付き合いのある著名人は大勢いたわ__あのお騒がせ女優のフレイ・アルスターとかね__彼がディセンベルの私立高校に通ってたときの同級生の中に、とびっきりのビッグネームを見つけたの。知りたくない?》
「……続けて」
最初から何も聞かなけりゃ良かったと後悔しながら、俺は仕方なく促した。
フレイ・アルスターだって? やれやれ。アスラン、あんたって人は。
《キラ・ヤマト》
ルナはゆっくりと俺に確実に聴かせるように、それを発音した。
《わかる? "ソランジュ"のKiraよ。しかもふたりは仲良かったんだって。さらに驚くのは__これは地元のファンサイトの情報だけど、『アスラン』は下積み時代の"ソランジュ"で演奏していた時期があるらしいの》
「……それって」
つまり、パトリック・ザラの息子が、Kiraの高校の同級生で、昔、あの"ソランジュ"のメンバーだったとルナは言いたいらしい。
そしてその彼はアスランで__さっきまで、俺と向かい合って食事をしていた。
(……『サーシャ』だ。メジャーデビュー前にバンドを抜けたっていう…)
俺は聞いた。食事中にアスランがそんな愛称で呼ばれたのを。
初対面のとき、あの人は俺のベースを見て言った。__『知り合いがベースやってたから』。
ルナの話を信じるなら、その『知り合い』のベーシストとは、他でもないYzak を指す可能性が高い。
汽車の中で、彼が俺の話を嫌な顔ひとつせずに聴いてくれたのも、連絡先を交換しようと言ったら快諾してくれたのも、俺が熱心な“ソランジュ”のファンだったから……?
(でも、それなら話してくれたっていいのに)
いっそルナの勘違いであることを俺は祈った。
けれどそうじゃないことも自ずとわかっていた。……だって、全部納得がいくのだ。
アスランが身の上の多くを語らないわけ。ロック史や楽器に精通しているらしいのに、素人を装うところ。コンサートのチケットを見て少し顔を曇らせたこと。
俺は何も知らずに、滑稽にも、彼と“ソランジュ”のコンサートに行く約束までしてしまった。
アスランは俺の知らない世界の住人だ。著名人の知り合いなんて腐るほどいて、“ソランジュ”のことも、彼の中では取るに足らない過去の話なのかもしれない。
でも、俺がそれを知る必要はないと彼が判断したのなら__寂しい、と思う。
彼が“ソランジュ”の関係者だったことよりも、彼が俺に黙っていたことがショックだった。
もちろん俺たちの関係に何か取り決めがあるわけじゃない。あの人が俺に嘘を言ったわけでもない。それでも、どうしようもなく心は傷ついた。
俺にとって、彼はもうそういう存在になっていたということだ。
(……アンタにとって俺は何?)
わかっている。これは俺の勝手な望みであって、押しつけだ。
自分が想っているのと同じだけ相手に想って欲しいなんて、口に出すのも愚かしい。
***
その後、電話をどうやって切ったのかは覚えていない。
とりあえず俺は、ふたりの待つテーブルへ戻った。
早くひとりになって頭を整理したかったし、アスランと目を合わせづらくて、すぐ店を出るつもりだったが、引き留められてしまった。
俺が席をはずしていた間に、さっそくミゲルとひと悶着あったらしい。アスランは少し苛立っているように見えた。
「うちに来いよ、シン。部屋ならひとつ余ってるから」
既に頭がパンク寸前だった俺に、正常な思考力が残されていたはずもない。
俺に何も打ち明けないままルームシェアを提案してくるアスランという人がますますわからなくなる一方で、心は正直にこの甘い誘いに傾いた。
明日の宿が見つかったことと、何より、彼の秘密を知ることができる絶好の機会に。
俺の心は決まった。
「……アンタがどうしてもって言うなら、そうしてもいいよ。さすがに今夜ってのは無理だけど」
ミゲルのほうは極力見ないようにして、俺は答えた。「でもその前にひとつ訊いてもいい?」
アスランは何の気構えもなく頷いた。
「どうぞ。ひとつでいいのか?」
「__アンタがパトリック・ザラの息子って本当?」
途端に、ばくばくと心臓が鳴り出して、耳が熱くなる。
視界の隅でミゲルがテーブルの上の人差し指をぴくりと動かしたけど、アスランは特に驚かなかった。
彼はちょっと黙って俺の顔を見つめたあと、「知ってたのか」と静かに言った。
「本当だよ。俺の父親の名はパトリック・ザラだ」
「……AIを積んだ無人戦闘機を作ってる会社の?」
「建物や塹壕の中まで標的を追尾して攻撃するドローンや、大量殺戮が可能な極超音速ミサイルもね」
アスランは淡々と認めた。
「ちなみに、いま俺が住んでいるのは母方の祖母の持ち家で、父がそこへ来ることはまずないよ。祖母は滅多にユニウスから出てこないし」
「……そうなんだ」
「訊きたいことはそれだけか? もし、シンがザラの人間と関わりたくないって言うなら…」
「あ、いや。そういうことじゃないよ。……同じ名字だから気になって、訊いてみたかっただけ」
そうか、とアスランは他意なく微笑んだ。
この人が俺に何を隠していても、少なくとも悪意からではないんだろう。
「…あ、でもタダで居候していいって話なら断るよ。幾らアンタが金持ちでも、そこまで甘えられないから」
「シンの好きにすればいい。荷物も少ないだろうし、明日越して来るだろう? 細かいことはうちで話そう」
アスランは少しためらったあとに、こう付け加えた。
「実は、おまえに折り入って相談したいことがあるんだ」
"元不良、高卒、ろくにお金も持っていないアマチュアのバンドマンが、たまたま知り合った大富豪とルームシェアすることになりました。"
俺の物語がラノベになったら…… いやいやいやダサすぎる。(しかもちょっとBLっぽい!)
いかん……ゆうべ全然眠れなくて、ヴィーノの本棚に積まれたサブカル系小説を片っ端から斜め読みしたせいだ。
(でもこれもある意味、異世界転生なんですけど…)
行き交う車の騒音。
両側にずらりと並ぶハイブランドのショーウィンドウ。
教えられた住所のマンションは、アッパータウンの目貫き通りにそびえ立っていた。
「……ホント、何考えてんのかな、あの人」
エントランスのガラスの前で長いこと突っ立っていたせいか、ドアマンが変な目でこっちを見ていた。
俺は諦めてロビーに入っていき、事前に教わったとおり、コンシェルジュに自分の名前と階数を告げた。
話はちゃんと通っていたようで(実はこのときまで半信半疑だったのだが)、相手は俺をじろじろ見たりせず、プロフェッショナルな対応で上階の住人専用エレベーターを教えてくれた。
階数ボタンの下にICリーダーがあって、そこにカードキーをかざすと、その階で停まる仕組みだった。
箱は、俺ひとりを閉じ込めて、厳かに上昇を始めた。
……静かだ。
こんなに大きくて、音の無いエレベーターに乗ったのは生まれて初めてかもしれない。
(アスランのおばあさんの持ち家、だっけ)
ひょっとして、税金対策とかいうやつか。
階数が上昇するとともに現実味も増していって、鳩尾のあたりがゾワゾワしてくる。
こんな都心の高層マンションの最上階に住む人が、俺みたいな何も持たない人間をまともに相手にするどころか、自宅のマスターキーまで渡してくるなんて、誰が想像できただろうか。
……そういえば地元でブラブラしていた頃、街中で何度か少年好きの男に声をかけられたことがある。中には親切ごかしに家に来ないかと誘ってくるヤツもいたけど、アスランがそういう対象として俺を見ているとは思えない。
__というか、おそらく俺はアスランのことをほんのちょっとだけ恋愛感情込みで見ているから、相手に少しでもそんな素振りがあれば気づけるだろうって話だ。
(……話し相手に飢えてるとか)
何せ、彼の友人はみんな忙しい。
Kiraはいま最も売れてるミュージシャンだし、ニコル・アマルフィの活動拠点は海外だ。フレイ・アルスターは、何とかっていう公子と婚約して以来マスコミに追い回されている。
人間の怖いもの見たさって心理は厄介だ。
昨夜俺はヴィーノが眠った後、スマホの検索バーに『アスラン・ザラ』と入れずにはいられなかったわけだが、ざっと上位の検索結果に目を通した結果、とりあえずわかったことが2つあると思った。
ひとつは、世の中には会ったこともない赤の他人の噂話に花を咲かせる暇人がけっこう多いってこと。
__そしてもうひとつは、俺が現代っ子にあるまじき情弱だったということ……!
ルナマリアがどうやってあれほどの情報をネットから引き出せたのか、そして何を以って真偽を見分けられたのか、さっぱり検討もつかない。
俺が調べた限りでは『アスラン・ザラ』の名前は昔のピアノコンクールの公式記録に残っていたほか、個人のブログで『彼』の書いた論文が紹介されていたくらいで、目ぼしい情報は殆ど無かった。
肝心なことは書かれていない。インターネットって、そういうものかもしれない。
いちばん多くて目についたのは例のフレイ・アルスターとの交際疑惑で、噂の出どころとなった写真も出回っていた。
どこかの路上で、群がるパパラッチから守るように彼が彼女の肩に腕を回して、車に乗せようとしていた。
ふたりは同郷で歳も近く、フレイの通っていたお嬢様学校は、アスランの男子校との交流行事が盛んだったらしい。高校の卒業パーティではアスランがフレイをエスコートしたことや、卒業後に貴族の男と婚約したフレイがたびたびマイウスを訪れ、アスランと『逢い引き』していたことが書かれていた。
一方、『彼』と“ソランジュ”を直接結びつける情報には辿り着けなかった。
……が、バンドの元メンバーのSashaについては幾つか噂話を仕入れることができた。
以前、ルナはSashaを女だと言っていたが、一部ファンの間でYzakあるいはMick(インディーズ時代のドラマー)とデキていたという噂が先行して、性別がごっちゃになってしまった経緯があるようだ。
でも、SashaとMickの脱退をめぐる『痴情のもつれ』説だって根拠のある話じゃない。
(Sashaの正体がアスランで確定だとしても、Yzakがゲイだなんて話は聞いたことがないんだよなー)
もちろん、ここが南部だからって誰もが自分の性的嗜好をオープンにするわけではないが。
……いや、その前に、仮にアスランがYzakと恋人同士だった事実があるとしたら(想像したらビジュアル的にはめちゃくちゃ眩ゆいカップルだが)__知らないフリをして一緒に暮らすなんてとてもできない!
(俺はいまアンタに訊きたいことが山のようにあるんだ…)
ネットに書いてあることを鵜呑みにしちゃいけないことくらいは知っている。
だったら本人に訊くしかないじゃないか。
(でも、そんなこと訊いていいのか……? 部外者の俺が)
ふと、履き古したスニーカーが目に入る。
乗ってから随分長い時間が経った気がするのに、エレベーターはまだ上昇を続けていた。
『ねぇお兄ちゃん。シンデレラって、すごい女の子だね』
叔父の家で暮らし始めて間もない頃、母さんの代わりに妹に何度も読み聞かせたフェアリーテイル。
『そうか? 俺には単に運が良かった子にしか思えないけど』
不幸な境遇の女の子がごまんといる中で、言っちゃ悪いがシンデレラは後見人と容姿に恵まれ、ピッタリのはずの靴が都合よく脱げて王子の手にわたるような、物語のためのヒロインっていうのが俺のイメージだった。
『違うよ、お兄ちゃん。シンデレラは魔法が12時で解けるのを知ってるのに、お城に出かけて行って、皆んなが見ているところで王子様と踊るんだよ? 普通怖くてできないよ、そんなこと』
『まぁ確かに、度胸あるよな。俺がシンデレラの立場だったら、お城の中に入らないで帰って寝るかも』
するとマユはこんなことを言った。
『私ね、毎日お父さんとお母さんの夢を見るの。お兄ちゃんもいて、4人のおうちでご飯を食べたり、一緒にテレビを観てるけど、私、これは夢だって知ってるの。このままずっと目が覚めませんようにってお祈りするのに、いつも目が覚めちゃうの。そのたびに今の何倍も悲しくなるから、もう夢を見たくないなぁ』
叔父夫婦に打ち解けるにつれて、マユは俺におとぎ話をねだらなくなった。
いまここで非日常の空間にひとりで立っていると、あのときの妹の気持ちがよくわかる。
(この魔法の期限はいつまでだ?)
このエレベーターはさながら、俺をきらびやかな城の舞踏会へ連れて行くカボチャの馬車だ。
アスランが生まれながらに持っているものの多くは、俺がどんなに努力したって一生手に入れられないものだと、わざわざ思い知らされに行くのかもしれない。
(……身分違いの恋って当事者はしんどいよな)
エレベーターに反比例して心は沈んでゆき、どん底に落ちたころようやく、腹立たしいほど軽やかなチャイム音が、最上階への到着を知らせた。
扉が恭しく開き、昼の光に満ちた明るいエレベーターホールが現れる。
ペントハウスというとエレベーターと居住空間が直結しているイメージだったけれど、ここの場合エレベーターを降りてからもうひとつセキュリティを通る必要がある。
勝手に入るように言われていたので、俺はカードキーをかざしてドアを開けた。
「…お邪魔しまーす」
中は開放的で、しんとして、ひと気がなかった。
白と黒を基調としたインテリアは、エレガントな貴婦人を思わせる。手前の階段のそばには生き生きとした花が飾られていた。きっとこの家の女主人が、アスランのために欠かさず届けさせているのだろう。
(……まだ寝てるのかな)
壁の時計を見ると、約束の10時よりちょっと早く着いてしまったらしく、9時半を回ったところだった。
アスランは朝が弱いほうだと前に言っていたし、電話するにしてももう少し待ってからのほうがいいかもしれない。
他人の家の中をうろつき回るわけにもいかず、とりあえず荷物を床に置かせてもらった。
目についたソファに腰かけようとしたとき、かすかな歌声が耳に届いた。
このときの出来事を振り返るたびに、それこそまるで魔法にかけられたようだったと思う。
俺の体は無意識に動いて、歌声のするほう、柱の向こう側へ足が向いた。
薄暗い部屋で、白い幽霊を見た。
18世紀で時が止まったかのようなシャンデリア。壁には幾つもの古い肖像画たち。窓にかかった分厚いカーテンが少しだけ開いて、一条の光の中に空中の埃がちらちらと舞う。
幽霊は女の子だった。
床一面に広がる純白の花嫁のヴェールを纏いつかせ、華奢な裸足で踊りながら、歌っていた。
(…この子は……)
なんて不思議な声を持っているんだろう。
あたたかく広がって、ノイズがきらきらして、少し物悲しい。
そんな、独特のゆらぎのある声。
永遠に漂うような声。
俺はその非現実的な光景にぼんやり見蕩れてしまって、女の子がヴェールの下に何も着ていないことを大して気に留めなかった。
彼女が侵入者に気づいて踊りやめ、強い不審と敵意の目を俺に向けてくるまでの話だ。
「誰?」
煙のように儚く消える…なんてことはなく、彼女は憮然として立ち尽くし、俺は一気に現実に引き戻された__この上なく悪くてまずい状況に。
頭の血が一瞬引いたかと思うと、どっと全身から汗が出た。
「す、すいません、俺、つい……」
「……で」
「えっ?」
大きな目できつく俺を睨みつけ、彼女はもう一度、言葉を発しようとした。
ラズベリー色の瞳に驚嘆しながら、俺は全身を耳にして息を殺す。
彼女の声を、もう一音も聞き漏らすまいと__
「し、ん、で!」
「はい! …え……?」
し……『死』?
いま俺、死ねって言われた?
「ステラ!? またそんな格好で…!」
俺の後ろから現れたアスランは珍しく素っ頓狂な声を響かせると、飛んでいって大判のスローを女の子の頭から被せた。
「部屋に行って、ちゃんと服を着てきなさい。あと、人に向かって死ねとか言わない!」
外から戻って来たらしいアスランは、引っ詰め髪にランニングウェアという格好だった。じゃっかん息を切らしていて、うなじが汗に濡れている。
(びっくりした…)
とりあえず何か発言しようとしたとき、後ろから圧を感じた。
振り向いたら俺のすぐ背後に、またもや知らない男が立っていた。
「こちらの方はあなたのお知り合いですか? アレクサンダー様」
金髪碧眼の美形は、俺を威圧しながらアスランに尋ねた。
「シンだ。今日からここに住む。シン、彼はレイ、ミゲルの部下」
アスランはそれどころじゃなさそうに、互いを紹介した。
「俺は聴いていませんが」
「だからいま言った」
「…ボスはこのことを知っているんですか?」
「うん。別にいいだろう俺の家に誰を住まわせようが。それより、おまえがいるとステラが動かないから少しあっちへ行っててくれないか」
何だか喧嘩腰のアスランに言われて、彼は無表情のまま俺を一瞥し、軽く会釈してから背を向けた。
(…あ、俺も消えるタイミングだった?)
数秒遅れて思い当たったとき、女の子がスローの中からもぞもぞと頭を出した。
絹糸のような金髪の乱れをそのままに、ぼんやり毛布に包まっている彼女に、アスランは英語じゃない言葉で何か言った。
それが聞こえたのか聞こえなかったのか、彼女はふらっと向きを変えた。
俺に関心を払わず、丈の余るスローを引きずりながら、ペタペタと階段のほうへ歩いていく。まるでシンデレラみたいに小さな足で__。
アスランは彼女が階段を上がっていくのを見届け、仕切り直すように俺を見た。「早かったな、シン。迷わなかったか?」
「うん。走ってきたの?」
「ああ……ちょっとその辺を一周してくるつもりが、レイのヤツが一緒に走るって聞かないから、ついムキになって大回りしちゃって_アイツ、見た目に反して脳筋なんだよな_結局振り切れなかったし…」
疲れた様子でぶつぶつぼやきながら、アスランは窓のカーテンを開けた。
さっと明るくなった部屋の中で、頭が一瞬くらりとする。
「つまり、ミゲルがつけて寄越したボディーガードってこと?」
「ただの傍迷惑な居候だよ」
……と言うことは、彼女だけでなく、あの能面美形もここに住んでるのか。
俺がちょっとガッカリしているあいだに、アスランはステラが床に落としていったヴェールをかき集めてソファーの上に置いた。
「それ、結婚式のヴェールだよな」
この国の伝統的なしきたりでは、花嫁のヴェールは母親から娘へと代々受け継がれるものだ。あの子がそれを持って、ここにいると言うことは。
なるべく何気ないふうを装ってみたものの、いざ訊こうとすると頬が引きつった。
「ちょっと歳が離れてるみたいだけど、もしかして、あんたの婚約者?」
相手はまだ子どもで、せいぜい高校1年生くらいに見えたが……まさか中学生ってことはないと思いたい。
(いや、でも中学生にしては発育が良すぎたような…)
ち、チラッと_いや、しっかり見た_っつーか、見えちゃったんだけど!
などと脳内自動再生にあたふたしていたら、アスランに怖い顔で睨まれた。
「何を考えてるか予想はつくが、誤解だ。ステラは知り合いの親戚の子で……ちょっと事情があって、いまうちで預かってる。ちなみにこのヴェールは俺の母の_」
「なんだ、恋人じゃないんだ」
安心したような、拍子抜けのような。
(でも知り合いの親戚って、ほぼ他人じゃん)
それとも、セレブの家庭では年頃の女の子が素っ裸で歩き回るのが普通なのか?(そんな馬鹿な!)
マユなんて、俺が下着一枚でうろうろしてても変態呼ばわりだ。
あの子にもさっきすごい目で睨まれたし、『死ね』って言われたし。
たぶん嫌われたんだろう……死を願われてもしょうがない。上から下までばっちり見ちゃったから。
落ち込むべきか、喜ぶべきか悩んでいたとき、アスランが言った。
「とりあえずおまえの部屋に案内するよ。詳しい話の前に、シャワー浴びて着替えたいんだけど、いいかな」
「あ、うん」
「荷物は玄関のところにあったぶんだけか?」
俺はキョロキョロしながら答えた。「残りは妹のとこ。あとで連絡して送ってもらう。……この部屋、表とは違って古風だね」
「ああ…この居間だけは祖母がユニウスのカントリーハウスから移築したそうだ」
「ふーん。あの壁の絵の女の子、もしかしてご先祖様とか? ちょっとアスランに似てる気がする」
アスランは言われて初めてそこにあるのに気づいたような顔で、暖炉の上の、ドレスを着た子どもの肖像画を眺めた。
「たぶん、そうなんじゃないか? 少女じゃなくて少年の絵だけど……緑色の目は母方の血筋に多いらしいから」
「へえ……じゃあアスランのお母さんの目も?」
「緑だったよ」
アスランの答えが過去形だったことに俺が気づいたのは、彼に続いて階段を登り始めたときだった。
「……上も広いんだね。いったい何部屋あるの? あの女の子も住んでるんだよな?」
「ベッドルームは4つある。ステラのことは気にしなくていい。当分おまえがいるときは部屋から出て来ないよ」
先に立って歩きながら、アスランはさらっと言った。「上に上がって一番目が俺の部屋で_」
アスランがドアを開けてくれたので、いそいそと覗き込んだが。
「……うわ、何も無い」
「あるだろう目の前に、グランドピアノが」
「そうじゃなくてさ」
寒々しい部屋には敷物すらなく、黒いピアノと、小振りのベッドだけだった。
あと、ベッドの上にノートPCが一台。
何もかかっていない白い壁、窓には素っ気ないブラインド、照明は天井から吊り下げられたランプ1つ。
服とか小物はクローゼットの中にあるのだろうけど、想像以上に殺風景だ。
「シンは俺の隣の部屋。どうぞ入って」
「あ、ありがと」
今更ドキドキしながら、真鍮のノブに手をかけた。
ドアを大きく開けると、真っ白な部屋が現れる。
「……気に入らないか?」
俺がずっと黙っているので、アスランが心配して訊いた。
「__まさか!! すげー嬉しい。嬉しくて一瞬ぼーっとしてた」
それから、気づいたら俺はそのキングサイズのベッドにダイブして、明るい天井を見て笑っていた。
「俺、こんな大きなベッドで寝たことないよ。本当にここにある家具、使っていいの?」
「もちろん。物を増やすのは自由だけど、無駄遣いするなよ。そこのクローゼットにタオルとか入ってると思うから」
「マジ?」
飛び起きてウォークインクローゼットを覗いていたら、アスランが部屋のもうひとつのドアを開けた。
その続きの部屋には2つの洗面台があり、向こう側にもうひとつドアがあって、アスランの部屋に繋がっていた。
「奥は風呂場だよ。ここは俺と共用になる。バスタブのついた風呂はもうひとつあるんだが、そっちはステラが使ってるから、男子は立入禁止な」
「わかった」
女の子が住んでいると知って不安だったけど、これだけ部屋数があれば問題ないような気がしてくる。
大理石のお洒落な洗面台を惚れ惚れと眺めていたら、鏡越しにアスランが服を脱ぎ始めてギョッとした。
「ちょっ、何でここで脱ぐんだよ!?」
「え? だから先にシャワー浴びるって…」
もー、この人は。わざわざセパレートのバスルームが完備されてるっていうのに!
俺はすかさず脱衣所の扉を開け、シャツを半分脱いだままポカンとするアスランを中に押し込んだ。
逃げるように自分の部屋に戻ってドアを閉め、どぎまぎする胸を抑えながら思う。
(やっぱ問題大有りじゃん……!)