26 -Shin-

アスランを待つ間、部屋の内装やら、窓から見えるアッパータウンの景色やらの写真を撮りまくって、とりあえずマユに住所と一緒に送っておいた。
ヴィーノとヨウランにもメールした。
そしてやることが無くなったので、作りかけの曲でも書こうかと、ベッドの上でスコアを広げた俺だったが。

(変だな…)

かれこれ40分以上は経過しているのに、アスランがバスルームから出てくる気配が、無い。
シャワーを浴びるだけにしては長すぎる。
気が変わって湯に浸かってるんだろうかとも思ったが、一応確認のため洗面所のドアを開けたら、風呂場からはシャワーの水音がしていた。

「……うーん」

さすがに、だんだん心配になってくる。

「おーいアスラン…? 大丈夫?」

風呂場に近づき、遠慮がちに声をかけてみた。しかし返事はなく、聞こえるのはザーザーと水が流れる音だけ。

(まさか滑って転んで頭でも打ったんじゃ…)

そうだ、男同士なんだし、ちょっと確かめるくらい_

「どうかなさいましたか? サー」

いつ入ってきたのか、あの金髪碧眼のボディーガードが俺の部屋からこっちを見ていた。
まるで覗きの現場をおさえられたような、微妙な空気が流れる。

「……シンでいいよ」
「これからアレクサンダー様に朝食をお出ししますが、シンもご一緒にいかがですか」

アレクサンダー様?
ああ、アスランのことか。
そう言えば、今日は朝から牛乳しか腹に入れてない。

「じゃあお言葉に甘えて……ってか、敬語も要らないって」

彼はちょっと考えたあとに、こう訊いた。

「シンはブレックファストかアールグレイか、どっちがいい?」
「あー、俺あんまり紅茶にはこだわり無くて。それよりさ、何か、アスランが全然シャワーから出てこないんだけど。いつもこうなの?」

するとレイは初めて表情を動かし(ちゃんと動くんだと俺は思った)、『それを早く言え』という態度でやって来て、脱衣所のドアを全開にした。
大きくなる水音。

「アレクサンダー様、失礼します」

レイはおもむろに中に入っていく。
ガラス張りの仕切りの向こうに、大きなバスタブが見えた。そしてその中に座り込んでいるアスランの痩せた背中が。

(え……)

俺が状況を呑み込めないでいるあいだに、レイは頭上から降り注ぐシャワーを止めて靴のままバスタブの縁を乗り越えた。

「シン、何か拭くものを」
「…あ、はい」

俺はあたふたと見回し、棚からバスタオルを取ってレイに手渡した。
アスランは怪我はなさそうだったけど、ぼんやりしたままで様子が変だった。
レイが慌てず騒がず、アスランの体をタオルでくるむ。俺は恐る恐るそばに寄って声をかけた。

「…やっぱ、頭打ったのかな。救急車、呼ぶ?」
「いや、これはおそらく必要ないやつだ。…しっかりしてください、アレクサンダー様。__アスラン!」

そしてレイはちょっと乱暴に、両手でアスランの頬を挟んでぺちぺち叩き始めた。

「…痛い」

やっとアスランが反応して、俺はいつの間にか止めていた息を一気に吐き出す。

「アスラン! 何かわかんないけど戻ってよかった…」
 
「…ィザ_」

アスランは何か言いかけて目を上げ、レイを不審そうに見た。

「……誰?」
「殴りますよ」
「…まぁいいか、おまえでも」
アスランはレイの手を取って、自分の両耳を塞ぐように持っていった。「少しだけこうしていてくれ」

レイは無表情のまま、アスランのしたいようにさせる。

「…冷たい」
「落ち着きましたか」
うん、とアスランは意外なほど素直にうなずいた。「大丈夫……静かになった」
「アレクサンダー様、また薬を飲むのを忘れたんですね。いま出されているぶんを全部こちらに渡してください。今後は俺が管理します」
「その呼びかた、やめろ」
「とりあえずここから出て、服を着て。動けますか」
「無理……いま糖分が圧倒的に足りないから。…チョコレート・カバード・ストロベリーが食べたい。…あと、トーストはマーマレードとバター多めで…」
「さっきは日本食の気分と仰っていたでしょう。今朝のメニューは豆腐サンドと味噌スープ、海藻のサラダです」

(……話に入りにくいなー)

猫脚のバスタブの中で、見目の良い男ふたりが向かい合って、しかも片方はほぼ全裸で。
イマイチ噛み合わない話が交わされる間、俺は辛抱強く待ち続けた。



***



結局レイはアスランのために朝食(というより既にブランチという時間帯だったが)を作り直した。
均等にきつね色に焼けた三角形のトースト、ふわとろのオムレツにかりっかりのベーコン、ベイクドビーンズ、アップルソースがけのブラッドソーセージ、などなど、それはもう、味も見た目も文句のつけようのない朝食を。

「何このマーマレード、めっちゃ美味しい!」
「……やっぱり日本食がよかったな」

いちいち感動している俺の斜向かいで、アスランはそう言って紅茶を飲む。
10人くらい座れそうな白いダイニングテーブルの隅に、アスランと俺は座っていた。(あのステラって子は、いつも自分の部屋で食べるそうだ。)
レイはアスランの独りごとをスルーして、俺に訊いた。

「シン、コーヒーのお代わりはどうする?」
「うん。ありがと。じゃあもう一杯もらう」

レイは一緒に食卓にはつかず、俺にまで朝食をサーブしてくれる。(居候どころか、コック兼執事にもなるスーパーボディガードだ。)
ミゲルが置いていった監視役だからか、他に理由があるのか、アスランはレイのことが気に入らないみたいだった。
そもそも、普段のアスランは食べ物の好き嫌い以前に、食べること自体にあまり興味が無いらしく、味やメニューに頓着しないほうだ。
わざと横柄に振る舞って、レイを早く追い払おうという魂胆なのかもしれないけど、敵はなかなか手強そうだった。

「さっきは悪かったな、シン」
アスランはフォークとナイフでオムレツを切り分けつつ、俺に話しかけた。「来て早々に、びっくりしただろ」
「あ、うん。まぁ」

確かに、このペントハウスの一癖もふた癖もある住人たちに、さっそく洗礼を受けた感はあった。

「アスラン、大丈夫なの? 病院とか行かなくて」
「そんな大げさなことじゃないんだ。子どもの頃からしょっちゅうだから、俺の周りの人間は慣れてるし」
などと、アスランは至って楽観的に言う。
「しょっちゅうって…危なくない? 今日は俺たちがすぐ気づいたから良かったけど」
「車を運転してるときとか、気を張ってるときは大丈夫なんだ。でも何て言うか……ほら、シャワーを浴びたり、洗い物をしたりしてると、頭が暇になるだろう? そういうときに限って、すごいアイデアがどんどん流れてきたりするじゃないか。__言ってる意味、わかるか?」
「うん、わかる気がする。俺、いいフレーズが浮かぶのって大抵、湯船に浸かってるときなんだよな」
そう、とアスランは何だか嬉しそうに頷いた。「俺は、その現象が他人より極端で__気を抜くと思考に溺れるっていうか…シンの場合に置き換えると、そうだな、最高にテンションの上がるフレーズが100曲浮かんで脳内同時再生される感じだ」
「…うん、ちょっとレベルが違いすぎてピンとこないけど、それはもうノイズでしかないだろうね。……ああ、それでさっき、『静かになった』って言ってたんだ?」
「まぁ、今のはたとえ話で、シンと違って俺のは音楽的なインスピレーションってわけじゃないけど」
「…でも…」

アンタは“ソランジュ”の__あんな天才集団の一員だったじゃないか。

「でも……楽器弾けるんだろ。部屋にもあんなでかいピアノが」
「ああ。煮詰まったときの気分転換にいいんだ。でも譜面どおりに弾くだけだよ」
アスランはオムレツをきれいに食べ終え、ナプキンをテーブルに置いた。「__俺はあくまでもエンジニアだから。“ソランジュ”に誘われたのも、元はと言えば俺の他にシンセサイザーとかエフェクトユニットとか、電子機器を使いこなせるやつがいなかったってだけで」


(……ん?)


「実家のガレージで母の_というか元々は祖父のだけど_大量のレコードとシンセを見つけたのがきっかけで、たまたま高1の頃、シューゲイジングとかドリームポップ系にハマってたんだ。で、クラスメイトだったキラと意気投合して、色々サンプリングして素材作って遊んでたら、イザークが使いたいって言い出して…」
「…いや、ちょっと待って、ストップ!!」

早い早い、展開が早い!

俺の焦りようを見たアスランは怪訝そうな顔をした。「……“ソランジュ”のことを聴きたいのかと思ったけど、違ってたか?」
「違わないです。でも俺、まだその辺のアンタの事情を知らないことになってんだけど…」

どうして、いきなり、何故に今?
何からどうやってこの話を切り出そうか、こっちは昨日寝ないで悩んだのに!

おかしいな、とアスランは首を捻る。「ルナマリアから聞いてないか? 昨日の夜遅くに、彼女が俺に電話してきて」
「ルナが、電話!? 何で?」
「俺の父親がパトリック・ザラってことや、俺がKiraの高校の同級生で“ソランジュ”にも一時期関わってたことを彼女が突き止めて、つい軽い気持ちでおまえに話したら、おまえがすごくショックを受けたみたいだって、気にしていた」
「…そ、そうなんだ」

俺はレイがテーブルに置いてくれたコーヒーに手を伸ばす。
よし、いったん落ち着こう。
昨日はルナの電話をどうやって切ったんだっけ?

「もしかして」
怪しむような目で俺を観察していたアスランが、そのときレイに向かって尋ねた。「さっき俺、風呂場で、間違えておまえのこと『イザーク』って呼んだ?」
「…ゲホッ」

コーヒーが気道に入ってしまった。盛大にむせる俺を見てアスランが「呼んじゃったんだな」と憂鬱そうに言う。(つまりさっきのアレは、俺の聞き間違いじゃなかったと…!)
俺が幾らか落ち着くのを待って、レイはアスランに答えた。

「俺はそんなにあの方に似てないと思いますよ」
「そうだな、性格も雰囲気も違うから実物は全然似てない」
アスランは一生の不覚とばかりのしかめっ面で言った。「…骨格が似てるんだ、頭とか手の形とか」

そう言われればそうかも、と俺は思わずレイの端正な横顔を見つめる。
シャープな顎、スッと通った鼻筋、切れ長の鋭い目__。

「…Yzakは短気で性格がキツいって、ホント?」

気づけば口から滑り出ていた。

「せっかちで直情型で、どこまでもプライドが高い」
アスランは普通に答えた。「根はいいやつなんだよ。ネットに冷血漢なんて書かれてるけど、性格はどっちかっていうと、顔に似合わず暑苦しい。敵を作りやすいのは、仕事熱心で一切の妥協を許せないのと、言わなくていいことまでズケズケ言うからだ」

彼が感情のこもらない声で話すので、俺はどう受け取ればいいのかわからなくなる。

「……Yzakがアンタの恋人なの? フレイ・アルスターじゃなくて」
「フレイ? ああ、彼女は…」

アスランは眉を上げて何か言いかけて、それはやめた。

「一時期付き合ってたよ、イザークと。高校も学年も違ったけど、キラを介して知り合って、俺がバンドに加わってしばらくしてから」
「……ホントにホントなんだ」

まだ半分信じられない。
アスランが、というより、いま俺を取りまいている全てのものが。
都会の高層ビルの最上階で、大理石のテーブルとか高価なティーセットとかに囲まれて、生まれも育ちも全く違う人から、こんな話を聴いている状況が_

「嘘みたいだよな」
と、アスランが淡白に言った。「俺も、街中で彼の写真を見かけても、あんまりピンと来ないんだ。『こんなヴェロキラプトルみたいな悪役顔だったっけ?』と思って」
「ヒドい」

Yzakの美貌を崇め奉っている熱狂ファンの女性たちが聞きつけたら炎上しそうだ。
せめて爬虫類系イケメンとか美白美麗とかクールビューティとか、他に言いようがあるのでは。

「…一時期って、どのくらい付き合ってたの?」
「俺が高1の冬からだから……3年くらいかな」
「長いじゃん!」

俺は1年も同じ女の子と付き合ったことなんてない。
Yzakは女癖が悪いっていう巷の噂はいったい何なんだよ?

「公式プロフィールだとYzakはKiraとLacusの1個上だよな。Lacusたちが高校卒業して、ディセンベルからセントラルに出てきて1年くらいはインディーズにいて、Archと契約したのが2年前」
「そうだね」
「でもメジャーデビュー直前に、SashaとMickが抜けてShihoがメンバーになった?」
「うん」

バンドの話になると一転して、アスランは口が重かった。

「あ、ごめん。アンタが話したくないならこれ以上訊かないけど…」
「そういうわけじゃない。大丈夫だよ」
アスランはちょっと口角を上げて見せた。「ただ俺はもう“ソランジュ”に一切関わってないから。俺が急にバンドを抜けたせいで、彼らには迷惑をかけたし……自分が元メンバーだったことを、軽い気持ちで人に言ったりはできなくて」

アスランが言葉を選んで話しているあいだにレイは粛々と食器を片し、紅茶のお代わりを運んできた。

「昨日、ルナマリアが、一瞬シンを疑ってしまったと言ってた。おまえが俺の素性を知っていて、何か目論みがあって計画的に俺に近づいたんじゃないかって。__ミゲルも、同じようなこと言ってたけど」
「えっ? …俺はそんな……!」
「わかってるよ。ルナマリアもミゲルも、本気でおまえが嘘つきだなんて思ってないさ。……でも俺は、ほんのちょっと、そうであってほしかったかな」

その発言には少なからず驚いた。

「俺が嘘つきのほうがよかった…ってこと?」
「だって、出来過ぎじゃないか。イザークと別れてマイウスに行って、2年ぶりにセントラルに帰る汽車の中で、“ソランジュ”の_キラかLacusならともかく_よりによってイザークのファンが隣に座って、俺の知ってる話や知らない話を道中延々と聞かせたんだぞ?」

そう言われて俺は、あのときの状況をアスランの立場でリプレイしてみる。

「……すっごく居た堪れない」
「だろ。こういう運命なんじゃないかとか、一瞬でも本気で悩んだよ」
「何か、ごめん」
「おまえがあやまることじゃないけど」
アスランは終始穏やかに言った。「でも本当にびっくりしたよ。__実は日付も一緒だったから。俺とイザークがふたりでセントラルに出てきたのが、3年前の同じ日だったんだ。ディセンベル駅から始発の汽車でね」
「……それ、マジ? 3月14日!?」

すごい偶然に、ワクワクしてくる自分を抑えられない。
あまり前のめりになって根掘り葉掘り訊かないようにしよう、と思っていたけど、Yzakのそういう話が聴けるのは、やっぱり嬉しくて。

「俺とキラの高校の卒業式が13日で_その夜はパーティがあって俺は殆ど寝てなかったんだけど_朝方にイザークに呼び出されて、駅前にひとりで行ったら、アイツは俺に片道切符を2枚見せて、今すぐセントラルに行こうとか言い出して」
「うんうん」
「予定では出発は1週間先で、他のメンバーも一緒に行くはずだったし、俺は携帯電話すら家に置いて来ててさ。イザークも、殆ど手ぶらだった。でも、あのときは俺も寝不足で、卒業して開放的な気分になってたのか、そんなに悪い考えじゃないように思えてきて__気づいたらふたりで始発便に乗っていた」
「…おおー」

やっぱりYzakってカッコいいな!
彼もかつて夢を叶えるために故郷を飛び出したんだと考えると、胸が熱くなった。その冒険に一緒に連れて行きたい人が、彼にはいたんだ。
俺はたぶん目をキラキラさせて聴いてたんだろう。アスランは面映く笑った。

「まぁ、あの逃避行は楽しかったな……生まれて初めて、自由で。あとでキラにもミゲルにも散々文句を言われたけど」

遠くを見て微笑む顔がきれいで、俺は息が詰まる。

まだ高校生だったYzakも、アスランに初めて会ったとき、こんなふうに息ができなくなったんだろうか。
いつもどこか別のところに心を半分置きっぱなしにしているアスランの目を、全力で自分に向けさせたい。
油断したらすぐにいなくなってしまいそうだから、片時も手を離したくない。
そんな身を焦がすような、苦しい恋をしただろうか。

「……じゃあ前にもセントラルにいたこと、あったんだね」
「うん。海辺の古いアパートメントに、ふたりで住んでた」

アスランは言って、紅茶をひと口飲んだ。

__『何で別れたの?』

本当はそう訊きたかった。でもたぶん、アスランは今は話してくれないような気がした。
何を言うべきか迷っていたら、レイが先に口を開いた。

「お話中すみませんが、アレクサンダー様。そろそろお時間です」
「だからその呼び方、やめろ」

アスランはうんざり気味に言って、立ち上がった。

「研究所に行くの?」
「ああ。シンは今夜は、バイトか?」
夢から醒めたような気持ちで俺は頷く。「ちょっと遅くなると思う。……あ、何か俺に相談があったんだっけ? ごめん、俺ばっかり色々訊いちゃって」
「また今度話すよ」

アスランはダイニングルームを出て行きかけ、「そうだ」と呟いて振り返った。

「この家で共同生活をするに当たって、ひとつだけ、おまえに絶対に守って欲しいことがあるんだけど」
「なに?」
「夜、寝るときは必ず部屋の内側から鍵をかけるようにしてくれ」
「は? ……何で? まさかここ、『出る』とか…」

怖いんですけど。
シンデレラが憧れたお城は、実はホーンテッド・マンションでしたっていうオチ?

「ステラだ」
と、アスランは大真面目に打ち明けた。「あの子は夜型で、皆が寝静まってから居間のテレビを観に降りて来るんだが、明け方に、戻る部屋をよく間違える」
「なるほど………え、どーゆーこと?」
「勿論おまえのことは信頼してるけど、ステラは行動の予測がつかないところがあるから、念のため忠告しておく」

アスランはそう言う割りには、疑念を払拭できていない目で俺を見ていた。

「もし何か間違いが起こったときは、ここから追い出されるだけじゃ済まないってことは自覚しておけよ、シン」



27 -Yzak-

二泊三日の行程をすべて終え、深夜ベイサイドに帰宅すると、家の中が紙の海になっていた。
ダイニングキッチンは真っ暗で、左手奥の寝室からオレンジの明かりが漏れている。

「…アイツ…!」

床に散乱したメモ用紙を左右に蹴りやりつつ、とにかくテーブルのそばの、開けっぱなしの窓を閉めに行った。
半開きになった寝室のドアを押し、思わず悪態が口をついて出る。
床に座り込んだ同居人の姿を見るなり俺は怒鳴った。

「起きろアスラン! 起きて自分のしたことを見てみろ!」
「……え?」

ベッドにもたれて居眠りしていたアスランは、寝ぼけ顔で俺を見あげて「おかえり」と言った。
俺は室内の被害状況の把握に忙しかったのと、腹が立ったので返事をしなかった。

『鬼の居ぬ間』に、アスランは思いっきり羽目を外していたらしい。
床には紙切れが散らばって足の踏み場もなく、ふたりのベッドには論文のコピーの束がうず高く積まれ、クローゼットの扉はマインドマップと化していた。
何よりショックを受けたのは、入居したとき自分たちの手で塗り直した壁一面に、数式や図面がびっしりと書き綴られている光景だ。

「貴様、やってくれたな……壁にじかに物を書くなとあれだけ言ったのに!」

コイツの悪い癖のひとつだ。一度何かに没頭すると周りが見えなくなって、手近にあるものを何でも黒板代わりに使う__波止場のコンクリートブロックとか、キラのTシャツとか。(いつも後始末をさせられるミゲルがボイスレコーダーやタブレットを持たせてみたものの、効果がなかった。)

言いたいことは山ほどあるが、具合の悪そうな相手に怒ってばかりもいられず、アスランの前にかがみ込んだ。
彼の両側のこめかみに、手のひらの付け根を当てるようにしてみる。
少し熱っぽいが、許容範囲だ。

「おい、寝るな。いつからこうだった?」
「…おまえが出かけた日の夜に、ちょっと…」
「ちょっと、何なんだ」
「言ったら怒るだろ」
「もうかなり怒ってるが!」

両手で頭を挟まれると気分が落ち着くらしく、アスランは少しマシな顔つきになっていた。
まだ完全に覚醒していないのか、だいぶ言語化に苦労しながら話す。

「白い部屋で……骨が…あのー… なんだっけ、大きな。…魚じゃない_」
「ああ、また例のクジラのお化けの幻覚が出たと。それで?」
「…そこからあんまり記憶がなくて……おまえがいるってことは、きょうは、日曜日?」
「もうすぐ月曜だけどな。つーか、安定剤は? こないだ相談して、多めに出されてるはずだろ」
「…えっと…」

アスランは後ろめたそうに言い淀み、俺は両手をグーに変えた。

「さてはわざと薬を飲まなかったな」
「だって飲むとアタマ痛くなるから…イ、イタい痛い痛い、何でそんなグリグリするんだ?」
「穴を開けて確かめてみようと思ってな! 中に入ってるのが人類最高級の脳みそなのか、ただの麦わらなのか」
「……怒らないって言ったのに」
「言ってない」
俺はうんざりして、アスランから手を離した。「おまえ、俺の声がちゃんと聞こえてるか?」
「うん」
アスランは目を閉じ、背中をベッドにもたせかけたまま言った。「おまえの声はたとえ夢の中でもよく聞こえるよ__たまに、うるさいくらいに」

遊び疲れた子どもみたいなアスランの顔を見て、俺は少し不安になる。

「……あんまりそっちに入り浸ってると、いつか帰り道を忘れるぞ」
「え…?」
「ちょっと待ってろ」

コイツに何か食べさせるのが先だ。
ちょうどいい土産があったのを思い出して、そばに放っていた荷物を漁った。
黒い箱を取り出して赤いリボンをほどき、ラッピングを雑に剥く。

「ほら。アタマ使い過ぎて動けないんだろ。とりあえず食べて、血糖上げとけ」

アスランの鼻先に箱を差し出すと、彼は甘い匂いに誘われたように目を開けた。

「……『フロプシー&モプシー』のチョコレート・カバード・ストロベリー?」
「会場のホテルが本店に近くてな。おまえの好物だろ」

アスランはおもむろに、チョコレートがけの苺をひとつ摘んで口に入れた。
黙々と食べて飲み込み、『こんな美味しい物は久しぶりに食べた』という顔になって、もうひとつ、ふたつと頬張る。

(……世話の焼けるペットでも飼ってる気分だな)

俺はしゃがみ込んで膝に頬杖をついたまま、アスランが1ダースの苺を完食するまで見守った。



***



シャワーから上がったアスランは、すっかりいつもの調子で寝室に帰って来た。

「……何で玄関のほうまであんなに散らかってるんだろう?」
「誰かさんが窓を開けっぱなしにするから風で飛んだんだろ。雨が降らなくて良かったな!」
俺は試合の疲れが出て、紙束を払いのけたベッドに寝転がっていた。「いい加減、しっかりしてくれ。おまえがそんなふうだとオチオチ家も空けられない」
「だから、ごめんって。こっちでおまえと暮らし出して、一人の夜なんて久しぶりだったから、変なスイッチ入っちゃったんだよ。壁は明日、きれいにする」
アスランは俺の頭の横に腰かけた。「__それでどうだった、結果は」
「ああ、優勝した」
「そうか、おめでとう」
アスランは俺の答えがわかっていたように言った。「これで当面はバンドに集中できるね。メジャーデビュー前に、あと20曲は作るんだっけ、大変だな」

相変わらずアスランは他人事のように話す。
”ソランジュ”の技術担当として、コイツには山のように無茶な注文をつけてあるはずだが。

「…おまえが代わりにマティウスに行けばよかったんじゃないのか? そんなに暇なら」
「今どきチェスの対面試合で、しかも2日間続くオープン戦なんて、かったるい。ピアノのときでマスコミには懲りたし」

……ときどきコイツは無意識にこういう上から発言をする。

「イザークもeスポーツとかやってみたら。キラはあれで結構生計を立てられるみたいだぞ」
俺は鼻を鳴らした。「アイツ、本当に昔からゲームばっかりやってるな。あんまりハマって本業が疎かにならないといいが」
「おまえのプロジェクトが失敗するリスク要因のひとつではあるよな」
アスランは苦笑いだった。「まぁ、キラはその気にさえなれば人の半分の努力でうまくやれるヤツだし、ああ見えてバンドには結構本気みたいだから、大丈夫と思うけど」

あれはもうキラという新種の生き物だ、というアスランには俺も同意見だった。
最初は、ギターの腕と言うよりルックスが及第点だったのでよそから引っこ抜いたのだが、今となってはいい拾い物をしたと思うべきなのかもしれない。

「俺はオンライン対戦はどうも性に合わん。……まぁ、賞金目当てって理由だけじゃなかったから別にいいが」

一応地元の大会なので、マティウスのトーナメントには毎年招待されているが、公式戦に出るのはこれで最後にするつもりだった。
当分は、母の墓参りに行く時間もないだろう。

「イザークは凄いよ」
アスランは俺が何を思ったのか察しただろうが、そのことには触れなかった。「俺と違ってバランスが良いし、キラと違って幾らでも努力できるし」
「……おまえらに比べて凡庸だと言われている気がする」
「褒めたんだから、素直にありがとうって言えば」

アスランは俺の隣にぱたっと横になる。
そして俺の腕をかいくぐって身をすり寄せてくるので、唇の端に口づけた。

「…薬は?」
「飲んだよ」
「頭痛は」

アスランは首を横に振って、長くカールした睫毛の下からじっと見てくる。
『セックスしないのか?』と訊いている顔だ。
したくなくはないが、あいにく今夜は俺も疲れている。それでもせっかくのお誘いなので、ぬるいキスを交わして、バスローブの中に手を滑らせた。

「…アスラン」
緩慢なキスの合間に俺は断りを入れた。「今したらたぶん、グダグダになるからな?」
「けっこう好きだよ、ベッドでおまえとグダグダするの。……でも、気が進まないなら、やめる…?」

風呂上がりの肌と髪の香りに包まれて、体は熱くなっていた。
俺に組み敷かれたアスランは夢見がちな目でこっちを見上げた。たぶん薬の影響が少し出ているのだろう。
背中を撫で下ろして、探りあてたそこは受け入れる準備がしてあり、入り口は柔らかく解かれていた。
すぐに欲しかったのは相手も同じだったらしく。

「…今日はお互い、余裕ないだろ…?」

俺の首にすがるように抱きついてきたアスランに「早く」と囁かれて、堪らない気持ちになる。
コイツのことになると、俺はどうしても理性より欲望が勝ってしまって、我慢も自制もあったものじゃなかった。
入ってすぐ、いってしまいそうになるのをさすがに耐えて、より深く、狭いところを目指す。

「ぅぅー。…やっぱりちょっとだけ待って…」
「…無茶を言うな」

中を突き上げながらアスランの中心を握ってやると、じきに息が合ってくる。

「ぅ、ん、ッん」

アスランがこういうことを全く嫌がらないのは、俺には嬉しい誤算だった。
彼が独り寝の夜に薬を飲みたがらないのも、ひとつにはセックスで副作用の不調を紛らわせることができないためだ。
俺もまた、彼が腕の中にいる感じが何よりしっくりきて落ち着く。

(いっそ喰い殺せたらいいのに)

こうして肌を合わせているあいだは、コイツが99.9パーセントは俺だけのものになった気がして、この上なく満たされる。
__それなのにときどき、どうしようもなく、あと0.1パーセントの要素でさえ許せなくなることがあった。

「ッ、くそ…ッ!」
「…あッ」

ギリギリで外に引きずり出して放つと、アスランはびくりと体を震わせ、俺の手に握られたまま達した。

事が済んで横になり、俺は枕に沈んだアスランの髪を梳いていたが、後ろの壁の数式が目に入って、ふと尋ねた。

「__おまえ、幸せか?」

アスランは目を開け、戸惑った様子で俺を凝視した。

「……よくなかった?」
「セックスはよかった。それもひっくるめて、俺はこの生活を気に入ってる。おまえは、どうだ? いま、満足しているか?」
「え…そうだな……俺もイザークと同じだと思うよ」

アスランはまだよくわかっていないようだったので、仕方なく俺は言った。

「愛しているんだ、おまえを」

I love you.
アスランの負担になりかねないそのスリーワードを、普段はなるべく口にしないことにしていた。
だが、今はコイツにそれを思い出させる必要がある。
この部屋の壁を埋め尽くしている計算式や、床に散らばった論文は、アスランの頭の中にだけ存在する世界の断片だ。常にコイツを煩わせ、ときには怯えさせるのに、同時に幻惑して魅了する、俺にとって最も厄介な敵。

「いつかおまえを取られそうで不安なんだ」

自分の研究に夢中になる気持ちもわかる。俺だって自分の作品には拘りが強いし、寝食を忘れるくらい没頭することはある。
しかしコイツの集中力は次元が違うので、俺はときには無理にでもコイツを日常へ引っ張り戻すことにしていた。
なぜなら、あちらの世界に完全に取り込まれ、いつか戻れなくなってしまったとき、アスランを待っているのは完全なる孤独だからだ。誰もそこへは入ってゆけないし、理解してやれない。ひたすら孤立無縁の戦いを強いられる一生になる。これまでどれだけの天才たちが、そうして人間性を捨て、社会から離脱し、ついには命を絶つ選択をしただろうか。
個を忘れ、広い視野をもてば、そういう生きかたも不正解ではないかもしれない。『神の贈り物』を持って生まれた彼らが、この国と科学史にもたらす恩恵を考えれば。

「……まぁ、そんなこと俺が許さないがな」
「イザーク…?」

アスランの母親が彼に音楽を与えたのも、ミゲルが彼を学校へやったのも、同じことを願ったからだと思う。
俺は、コイツに普通の幸せを与えてやりたい。普通に愛して愛されて、陽の当たる場所で、笑ったり泣いたりして生きて欲しい。

(おまえをどこにも行かせない)

それは何よりもまず俺が離したくないせいではあるが、彼が幸せになるいちばんの方法でもあると信じたいのだ。
俺はアスランの体をぎゅうと抱きしめた。

「……明日はおまえが朝食を作れよ。それから、いちにちの予定を全部キャンセルして、ひたすらfxxxする。それで今日の件はチャラにしてやる」
「掃除は? っていうか、言葉遣い」

アスランは放送禁止用語を使うとすぐ怒る。

「嫌なのは言い方であって、提案自体はOKなんだな?」

話しているうちにちょっと頭が覚醒してきて、もういっかいくらいならできる気がしてきた。
柔肌のいたるところにキスしては、執拗に吸い上げる。アスランは仕方なさそうにため息をついた。

「……ときどきおまえがそっちのことしか頭にないのかと疑いたくなる」
「心外だ。たとえおまえが不感症でEDでも俺は今更別れない自信があるぞ。さすがに欲求不満のほうは、よそで解消してくると思うが」

アスランは『嫉妬』の代名詞でもある緑の目で、きつく俺を睨んだ。「Fxxx you.」
これだからコイツが好きだ、と内心思いながら俺は笑った。「__Shall we dance?」