28 -Yzak-

女は雨に濡れて戸口に立っていた。青白い顔で寒さに震え、世間並に親切な人間(例えばアスランのような)が家の中へ招き入れて一晩泊めてやろうと思うくらいには、疲れきった様子で。
無論、フレイ・アルスターはそういうことを計算ずくで、俺たちのアパートメントをシェルターに選んだのだ。

「アイツなら2年以上前に出てったきりだが」
戸口に肩を預けて俺は言った。

女は片眉だけ上げて、顔をしかめた。頬に張り付いた赤い髪を払い、態度をひるがえす。

「……マイウスからこっちに帰って来たって聞いたんだけど」
「あてが外れて残念だったな」
「まぁいいわよ、ホテルに携帯を忘れちゃって、ここを思い出してダメ元で来てみただけだから。とにかく中へ入れてくれる? 寒くて死にそうなの」
「……何時だと思ってる。マスコミにつけられてないだろうな」

俺がこの部屋を未だに引き払っていないことを知る人間は殆んどいないだろうが、この手の騒ぎに巻き込まれるのは御免だった。

「近所までタクシーで来たけど誰もついてこなかったわ。とにかく入れてよ、さもないと大声出すから」
「……」

俺は戸口を塞いでいた体を斜めにして女を中へ入れ、念のため廊下に人がいないことを確認してからドアを閉めた。

「で、アスランは何処なの」

フレイは無遠慮にダイニングキッチンを見回しながら訊いた。彼女は一度ここへ来たことがあったが、そのときと同じくこの部屋について何もコメントしなかった。

「さあ。アッパータウンに家があると言ってたから、そこじゃないのか」
「何でセントラルに帰って来たの?」
「こっちの研究室に呼ばれたんだと」
「何それ、順調に闇堕ちコースじゃない」

フレイは断りもなく冷蔵庫を開け、瓶ビールを取り出した。(とりあえず寒さで今夜死ぬことはなさそうだ。)

「もう、とんだ無駄足だわ。エレベーターが故障中で7階まで階段を上がって来たのよ、あり得ない。アスランがいないならいないって、先に言ってよ」
「インターホン越しに言っても信じないだろ。夜更けにそんな訳ありの格好でエントランスをうろつかれたら俺が困る」
彼女はカウンターに腰かけて脚を組んだ。短いスカートがまくれて白い太ももまでむき出しになる。「スキャンダル嫌いのロックミュージシャンって、菜食主義のライオンみたい」
「俺はトラブルを避けてるんだ。__おまえがどこで誰と結婚しようが自由だが、マリッジブルーの気晴らしがしたいなら俺の領域圏外でやれ。いつまでもハイスクール生気分でアスランを自分の問題に巻き込むな。アイツには本来、自分と他人の面倒を一度に見る余裕なんか無いんだ」

どいつもこいつも昔から、アスランの気前の良さに甘え過ぎだ。__そういう人間をいちいち相手にして、俺のことを後回しにするアイツにも問題がある。ミゲルは信用されている証だというが、だったら少しは俺を頼ればいいものを。

「でもアスランは、たいして迷惑そうじゃなかったわ」
フレイは飄々と言った。「きっと気性が激しい人間が好きなのよ、でなきゃアナタと3年も付き合えるわけないでしょ」

フレイは当初アスランに目をつけていたので、狙った獲物を俺に『横取り』されたことを未だに根に持っているところがあった。
アスランは別に女が駄目というわけではない。しかしフレイの蠱惑的な灰色の目や真珠のように輝く肌といったセックスアピールは、アイツには効力を発揮しなかった。アスランが『美しい』と形容するのは専らヒトの手の27個の骨とかアマツバメ目の風切羽とかで、自然の機能美なら何時間でも納得するまで眺めているが、個体間の容姿の優劣には2秒より長く興味を持てない男である。

自分の魅力になびかない男に固執するほど不自由していなかったとはいえ、ハイスクール時代の彼女はアスランが自分の『専属』であるかのように振る舞い、彼が他の女子生徒とツーショットで外を出歩いたりしないように神経を使っていた。
フレイの所属する窮屈な世界では、ディセンベルの名門私立にボーイフレンドがいることがピラミッドの上位に入る絶対条件だった。北部の名士であるザラ家の嫡男をエスコートに指名できるのは、フレイをはじめ学園を支配する一握りの少女たちに限られていた。
『女の結束って儚いわ』と、いつだったか彼女は俺にこぼした。『いちばん仲のいいグループの子たちだって、アスランにはフレイがいるからダメよ、なんて口では言うけど、実際はお互いが抜け駆けしないように見張り合ってるんだから』
どのみち俺とアスランが友人以上の関係であることは大っぴらにできなかったので、俺は彼女がアスランを表向き『占有』すること自体は黙認した。
俺は旧態依然とした社交界が嫌いで滅多に出かけなかったが、アスランは父親の手前そうもいかないときがあったのだ。

夜も更けて今夜は彼女を泊めるしかなさそうだったので、俺はソファーに毛布を運んだ。

「勘違いのないように言っておくが。アスランがおまえの我がまま放題を許していたのはおまえがキラの女だったからで、それ以上でも以下でもないぞ」
カウンターの上で足をゆらゆらさせながら、フレイは鼻で笑った。「そうそう。アナタのアスランに対する所有欲って昔からちょっと異常だったわ」
「自覚はある。だが少なくとも俺はアスランだけだ。おまえほど欲張りじゃない」

キラが孤児院育ちの養子で、奨学金で高校へ通っていたというだけのことが、彼女に彼を愛していると認めさせることを何故そんなに難しくしたのか、俺には到底理解できない。彼女のもうひとりの崇拝者であるサイ・アーガイルは、東オーブ公国の公子という家柄を以てしても彼女を満足させなかったというのに。
自分より地位や名声が大事な女をいつまでも見限れないキラも、大概どうかしていると俺は思う。
しかしアスランは例によって深く干渉せず、キラとフレイ、双方の自滅行為に加担していた。表ではキラの代わりにフレイをエスコートし、裏ではキラが彼女と逢い引きするのに手を貸すといった具合に。
この茶番は、しばしば俺とアスランの口論のもとになった。
『フレイだって苦しいんだよ』とアスランは言った。『政治家の父親は彼女をオーブの公妃にしたがっているし、金遣いの荒い親族が大勢アルスター父娘にたかっている。おまえみたいに家族より自分の人生を取って家を飛び出せるほど、彼女は強くない。キラはそれでも彼女がいいっていうんだから、しょうがないじゃないか』
アスランがフレイに同情的なのは、家名に縛られた立場が自分のそれと重なって見えたせいなのだろう。

「おまえ、何度かマイウスでアスランと会っていたよな。あの品行方正な公子様が相手じゃ退屈だったのはわかるが」
「サイはいいひとよ」
フレイは義理を立てたが、もう少しで俺に同調するところだった。「一年の半分も雪に埋もれた僻地に独りきりじゃ可哀想だから、時々様子を見に行ってただけ。正確には、独りではなかったけど。勿論ミゲルの手下も一緒だったし_ああ、アナタは一度もマイウスに行かなかったから知らないわよね_アスランが引き取ったあのコもいたし」
「引き取った?」
フレイは意味深に笑った。「…猫よ。人見知りするけど、小さくて可愛いの」
何となくその笑い方が気に食わず、俺はキッチンの時計に目をやった。「明日は6時に出なきゃならないんだが、おまえはどうする」
「心配しなくてもちゃんと明日、出て行くわよ」

ハイスクールを卒業後、彼女はモデルから女優に転身してそれなりに成功しているように見えた。
しかし厄介な家族の問題は彼女について回った。紆余曲折あって公子との婚約まで漕ぎ着けたものの、縁談を押し進めた彼女の父親が急逝し、結婚は延期された。噂では、大公夫妻が彼女の俳優業や派手な男性遍歴に難色を示しているらしい。また、父親の庇護を失った彼女の財産の大半が親戚の豪邸やヨットに消え、持参金が払えなくなったという話も耳に届いていた。
親の反対を押しきれない婚約者や、彼女に寄生する親族、殺到するパパラッチに辟易したとき、彼女にはアスランのほかに頼れる人間がいなかった。そう考えると、一晩くらいここに置いてやってもバチは当たらないという気分になる。

「テーブルのPCを使っていいから明日アスランに連絡するんだな。隠れ家のひとつやふたつ、アイツなら手配できるだろ」

人目を忍んで夜に雨の中を歩いてきた彼女を見たとき、俺は正直、彼女が頼ったのがキラでなくてよかったと思った。
キラは性懲りもなくこの女を気に懸けているらしい。フレイがマスコミの前から姿を眩ました頃からそわそわと落ち着きがなく、週末にツアーのファイナルコンサートを控えているというのに全く集中できていなかった。

フレイはどうするか決めかねるように肩を窄めた。「電話を引いてないの?」
「あるにはあるが、ここの番号からかけてもアイツは取らない」
「アナタらしくないわよ、イザーク。まさかこのままアスランがあの父親の会社の所有物になるのを放っておく気じゃないでしょうね」
感情を昂らせた彼女の声は少し震えて聞こえた。「ヤツらはあの子の人格なんかどうだっていいのよ。ZAやMMIの幹部どもはあの子をダークサイドに堕としてヤバい兵器を作らせたいの。いつかあの子が作ったロボット軍団が人類に戦争をしかけてきたら、全部アナタのせいだから」
「……おまえに言われなくてもアイツは連れ戻す」
「そう、じゃあ今から行って拉致って来たら?」
女は挑戦的に俺を見つめた。「アッパータウンは目と鼻の先よ。車ならせいぜい20分」
「ツアーが終わるまでは動きたくても動けないんだ!」
俺は苛立ちを抑えようとして失敗した。「ただでさえおまえの婚約騒動でうちのギタリストが不調なのに、アスランが戻ってると知ったらミーアまでコンディションを崩しかねない。アイツが歌えなくなったらバンドは終わりだ。そんな結末になったら俺はアスランに合わせる顔がない」
「どうして。幾らアスランに訊いても教えてくれないんだけど、いったい2年前にアスランとミーア・キャンベルの間に何があったの? ミーアの父親が自殺したことにアスランがどう関わってるって言うのよ?」

一度クールダウンする必要があった。俺はテーブルの椅子に座って、煙草に火をつけた。
窓に当たる雨の音がしていた。
アスランは海に降る雨を眺めるのが好きだったと、ぼんやり思い出した。自然の循環。その摂理。

「……おまえは自分が人を殺せる種類の人間だと思うか?」
フレイは怪訝な顔で俺を見た。「ええ、銃があれば殺せると思うわ。撮影では、人をナイフで刺したりペーパーウェイトで殴ったりしたことがあるけど、ニセモノでもあの生々しい感触はちょっとね。__待って……アスランがキャンベル氏を殺したの?」
「そうじゃない」
アイツは人を殺す訓練も受けているし、必要に駆られれば素手でも殺せると思うが、実践したことはないはずだ。
「あのとき、俺たちにはそれぞれ大事な人間がいて、それぞれのやり方で誰かを守ろうとした。俺が言えるのはそこまでだ」

フレイは到底満足しなかった。カウンターを降りた女は俺の煙草を一本失敬し、ソファーに座って煙を細く吐き出した。

「おととしの秋ごろ、ファッションショーで偶然おたくのお姫様に会ったのよ。向こうから話しかけてきたときは、一瞬だれだかわからなかった。地元にいたころは学校も違って話したこともなかったけど、あの子、私服もキャラも全然Lacusっぽくないし、何か思ってたのと違ったわ」
「だろうな」

ミーアの天真爛漫な振る舞いがフレイを面食らわせるところは容易に想像できた。あの持ち前の人懐っこさに俺やフレイのような屈折した人間は毒気を抜かれがちだ。

「アスランの友人として、私も彼女には色々言いたいことがあったのよね。それなのに彼女のほうからアスランのことを訊いてくるし、本気で心配していたみたいだし。あの子、彼が『急にいなくなった』って言ったのよ。嘘を言ってるようには見えなかった。私、わけがわからなくて苛々して、つい言っちゃったわ」

__『ラクスって亡くなったお姉さんの名前でしょう。彼女はアスランの初恋のひとなのよ、ご存じだった?』

「若くして死んだきょうだいのぶんも生きるって言えば聞こえはいいけど、Lacusを演じるあの子はまるで死者に完全に成り代わろうとしているみたいで、私には気味が悪い。…だってあの子、聖母様みたいに笑ってこう言ったのよ。__『“ソランジュ”の歌姫はラクスじゃなきゃダメなの。ミーアは初めから存在しなかったはずの、出来損ないの救世主だから』」