08 -Shin-

「”ソランジュ”ってもともとメンバーは5人だったんでしょ」
「え?」
「『え?』って、知らなかったの? ファンのくせに」

ルナは呆れた顔で、フィッシュ&チップスを摘まむ。

「だって俺は」
「Yzak個人のファンなんでしょ、それはもう聞いた」

ルナマリア……下の名前はそういえば知らない。
俺より2歳年上、学生。すらっと手足が長くて、赤毛をショートヘアにしている。
ライブハウスで何度か顔を合わせて、俺がグラスを取り違えたのがきっかけで話すようになった。
たまにこうして、ライブのあとそのまま安い居酒屋に入り浸っては、好きなバンドの話をする。

「インディーズの頃はShihoはメンバーじゃなかったらしいわよ。メジャーデビューのときに、ふたり抜けたの」
「抜けた……何で?」
「前のドラマーの他に、もうひとりキーボード担当のレギュラーがいたんだけど。噂では、そのSashaって女が、Yzakとデキてたんだって。痴情のもつれが原因の仲間割れじゃないかって話」
「へえー……」

ちょっとビックリ。
Yzakの私生活にそこまで興味があるわけじゃないけど、彼が昔、自分のバンドの女に手を出したっていうのが本当なら、意外だ。
トラブル必至なので普通は避けるし、少なくとも俺のイメージするYzakは、音楽という仕事に対してとても真摯で、誰よりも本気だから、バンドにそういうゴチャゴチャしたものを持ち込むとは思えなかった。

「まぁ、デキてた云々は、本当かどうか怪しいわよね。ネット上には自称『Yzakに捨てられた女』がいっぱいいるもの。何もわざわざ自分のバンドの女と寝なくったって、女なんか腐るほど釣れただろうし」

ルナはずけずけ言って、横目で俺を見た。
『どうせアンタもそーゆー尻軽と随分遊んできたんでしょ』という非難と軽蔑の目だった。

偏見だ! ……と叫びたい。
そりゃあバンドマンはモテますよ?
実際、学校では女にモテたいって理由で軽音部に入るヤツも多かったし。
俺はそんな不純な動機じゃなかったけど、中坊の分際で女の子にきゃーきゃー言われて、それなりに調子に乗りましたよ。
ただでさえ思春期真っ盛り、周りは甘い誘惑だらけ。
他校の女子に告白されて興味本位で付き合ったり、ライブハウスの年上のお姉さんに色々教えてもらったり……したけどさ。
でもすぐに、そういうのが自分には向いてないってわかった。
俺は付き合うなら、相手をちゃんと好きになりたいし、大切にしたい。
だけどあの頃は__今もだけど__ガールフレンドのことより他に、夢中になれるもの、大事なことがたくさんありすぎたんだ。

「……メンバー交代の原因が、痴情のもつれだったとしてもさ」
自分を弁護するような気持ちで、俺は言ってみた。「Yzakにとっては、人生をかけたバンドを崩壊の危機に晒しても止められないくらい、真剣な交際だった可能性もあるじゃんか」
「うすーい可能性だけどね」
ルナはにべもない。「Yzakってデビュー前は相当女癖が悪かったみたいだし。実はLacusともデキてて、三角関係の末の破局だって話まで出回ってるし」
「……嘘だ、そんなの」

もしYzakがバンドの中で二股かけてたとしたら、ゴチャゴチャどころじゃない。
……泥沼である。

「私だって信じてないわよ。『それだけはやめて』っていう勝手な願望なんだけどね。Lacusって歌は抜群にうまいけど、歌詞が重いじゃない。惚れた腫れたばっかりで、他に考えること無いのかよって感じ」
「そ、そうかな……。Lacusが嫌いなの?」
「嫌いっていうか、ぶっちゃけ妬ましいのよ。天賦の才と美貌に恵まれて、国民的スターでお金持ちで、そのうえYzakまで独り占めされちゃ堪んないわ」

ルナの前にさっき置かれたばかりのジョッキが、いつの間にか空になっていた。

「浮気されるとねー、男は裏切った女を責めるけど、何故か女は、恋人を寝取った女を憎むのよねー。”ソランジュ”は男女関係のスキャンダルが無いから、女性にこれだけ支持されてるのよ。仮にYzakか、Kiraと熱愛発覚〜なんてことにでもなったら__誓ってもいい、Lacusはめちゃくちゃ叩かれるわよ」
「ルナはYzakとKiraだったら、Yzak派なんだ?」

俺は急いで訊いた。
よくわからないけど、これ以上喋らせたら、決して男が覗いてはいけないものを見てしまうような気がする…。

「うーん、顔はYzakのほうがタイプかな。でも彼氏にするならKira__……」

ルナが笑顔になったので、ホッとしたのも束の間だった。

「って、そんな別世界の住人のことは今はどーでもいいんだったわ!」

ルナはぐっとテーブルに身を乗り出し、俺に顔を近づけた。

「やっぱりアスランって、彼女いるの? いないわけないよね。どうなの?」

どアップの迫力に負けて、俺は首を振った。

「……い、いないと思う」
「待てよ。彼女とは限らないか……」

ルナはひとりでブツブツ言っている。

(絶対訊かれると思ったけどさ……)

先週、アスランをお気に入りのライブハウスに連れて行った。
バルトフェルド教授に、『息抜きさせてやってよ』と頼まれたのだ。 ところが店の中で偶然ルナに会って、なりゆきでアスランを紹介したら、もう一度会わせろと言って聞かなくて。

「もしかして彼って、ゲイ? 一緒にいて、そんな素振りあった?」
「え……? 無い……と思うけど」
俺は思わず答えてしまって、それからムッとした。「そういうことは自分で訊けよ。仮に知ってたって、俺の口から言うことじゃないだろ」
「もう、固いなー、北の田舎者は。アプリリウスじゃ、ゲイのカップルとかむしろちょっとしたステータスよ?」
「そういうことじゃなくてさ」

不貞腐れていたら、後ろから噂の主の声がした。

「楽しそうだな」
「……アスラン」
「あっ、お疲れ様です! どうぞ、ここ座ってくださーい」

ルナは全く悪びれず、隣の椅子からいそいそと鞄をどける。

「ごめん、遅くなって」

無理に誘ったのはこっちなのに、アスランは律義に詫びながら、俺の前に座った。
かがんだ拍子に、首の付け根でちらりと光ったものがある。

(あれ?)

アスランはいつも、飾り気のない服装を好む。(俺はピアスとか鋲とか、ついジャラジャラと付けてしまう。)
今夜の彼の出で立ちも、洗いざらしの白シャツに細身のスラックスというシンプルさだ。
けれど一つだけ、銀の華奢なチェーンを付けているのが珍しかった。

「全然大丈夫です。今も”ソランジュ”の話で盛り上がってたんですよー」
「それは……もしかして、お邪魔だったかな、俺」
「あ、ご心配なく! 私、年下の男に興味ないんで。何飲みます? とりあえずビールでいいですか?」
「じゃあウィスキー、ロックで」
「了解です。すいませーん、ウィスキーロックと、ビールお替り!」

(……テンションが違いすぎるんだよなー)

俺はわざと、ずずーっと音を立てて、アイスコーヒーのストローをすする。
アプリリウス州は18歳から飲酒OKなんだけど、俺は酒が一切飲めない。

「アスランって彼女いないんですか?」
「いないよ」
「じゃあ、彼氏は?」
「いや、そっちもいないんだ。ご期待に沿えなくて申し訳ないけど」

アスランはさらりと否定した。

「恋人の募集はしてないんですか? アスランだったら選り取りみどりですよ」
「今はひとりがいいんだ。上京したばかりで落ち着かないし、大学も忙しいし……」
「アスランがいる研究所の主任って、マイウス工科大学のDr.アンドリュー・バルトフェルドですよね? バイオメティクスの第一人者!」
「よく知ってるね」
「ふふ、こう見えても工学部なんです。名もない私立大学ですけど」

__アスランと知り合ったのは俺が先なのに、ルナばっかり。
ガキみたいなことでむしゃくしゃしてきて、アイスコーヒーの氷を、ストローでぐりぐりかき混ぜた。

「私、サイエンス雑誌の編集者になりたいんです。校閲の仕事に興味があって」
「へぇ……じゃあ、いつか俺が投稿した論文をきみがリジェクトしたりするのかな」
「まだ本当になれるかどうか、わかりませんけど。あっ、今度、アスランの大学を見学しに行ってもいいですか? 天下のマイウス工科大学のセントラル・キャンパス、一度歩いてみたかったんです」

それからその夜は、ずっとルナのペースで会話が進んで、俺は黙々と飲み食いに専念した。
一度ルナが席を外したとき、アスランが俺に訊いた。

「もしかして本当に、邪魔したか?」
「え」
「俺が来てから、ずっと怖い顔して」
「……してないよ」
「そうか? 俺に遠慮することないだろ、今さら」

アスランはロックグラスを片手で揺らしつつ、呑気に言った。
無意識にそれを目で追って、手のかたちも綺麗だな、とぼんやり思う。機械の細かな部品を扱う器用な指先は、ミュージシャンにも向いている。

「けっこう良い感じじゃないか、おまえたち。お似合いだと思うよ」

この人、何もわかってない。
俺はちょっぴりいじけた気持ちで、彼の長い指から目を逸らした。

「……別に、俺はルナのこと、そういう意味で好きとかじゃないし」

『好き』__
その言葉を口にしたら、急に、胸がドキドキしてきた。

(……やば、)

今、アスランの顔を見たら。
変なことを口走りそうだ……。

「シン?」
「何でもない。ちょっと酔ったかも」
「……おまえ、アイスコーヒーに何入れたんだ?」


『恋だろ』__というヨウランの声がする。


俺。
本当に、変なのかもしれない。



09 -Yzak-

残り一本の仕事は最短で片したが、アーサーに送られて自宅のアパートメントへ着いた頃には、24時を少し過ぎていた。
オートロックの鍵を開け、エレベーターを待つ間にスマホを操作し、ワイヤレスイヤホンを耳に押し込む。
ミゲルは数回のコールで電話に出た。

《ようイザーク。久しぶり》
「ああ。こんな時間に悪い」
《いいよ。絶対かけてくると思ったし》
「アイツにはもう会ったのか?」

エレベーターに乗りながら、挨拶もそこそこに本題を切り出した。
するとミゲルは盛大な溜め息をついた。

《いや、まだ。アイツ、俺にも言って寄越さなかったし、スティングに会わなきゃ今頃まだマイウスにいると思ってたよ》
「そのスティングは何で知ってるんだ」
《んー、それについて話すと長くなるんだけどさ》
「なら今はいい。……とにかく、アスランは市内のマイウス大の研究所に移って来てるってことだな」
《待てよ。まさかおまえ、会いに行くつもりじゃねーだろうな》
「そのまさかだ!」

エレベーターを出たら声が大きく響いた。俺は足早に廊下を突き当りまで歩き、素早く鍵を開けて中に入った。

「俺はアイツに色々言いたいことがある! ついでに一発殴る! この俺を2年間もほったらかしにしやがって」

そもそも俺は、アスランが大学を受験していたことすら知らされていなかったのだ。
確かに、あの頃は俺もメジャーデビューのことで頭がいっぱいだった。だが、アイツにプロになる気が無かったのなら、そう言うチャンスは幾らでもあったはずだ。
言ってくれたら、俺だって無理にバンドを続けろとは言わなかった。才能は惜しいが、家の事情はわかっていたから。
……ただ、側にいて欲しかった。

《アスランは、おまえとは切れたって言ってたぜ》
「切れてない」

アイツが別れ話を持ち出したのは、メジャーデビューの話がまとまってすぐのことだった。
ミーアの父親の葬式以来、アスランはどこか様子がおかしかった。彼が俺の前であんなに取り乱したのは初めてで、それも無理からぬことだったと思う。

__『俺はマイウスへ行くよ』
ある日唐突に、アスランは決定事項を告げた。
『だから、もうおまえとは一緒にいられない』

もちろん俺はわけを聴こうと試みたが、レコード会社の人間との打ち合わせの時刻が迫っていて、とにかく帰ったら話し合おうと言った。
アスランは一度決めるとテコでも動かない性格だ。話を聞き出すには時間がかかるし、俺は感情的な言い争いを避けたかった。
思い詰めたときの彼の行動力を甘くみていたのだ。
帰宅すると、アスランは少ない荷物ごといなくなっていた。

俺はリビングの窓際に立ち、真っ暗な海を眺める。
__上京して1年ほど、ベイサイド地区にあるこの部屋でアイツと一緒に暮らしていた。都心からは少し離れていたが、アイツが入り江が見える景色を気に入ったので。

今でも後悔している。あのとき、何としても彼を引き留めるべきだったと。

「あんな書置きだけ残して俺と別れたつもりでいるアイツの考えが甘いんだ。俺は1ミリも納得してないからな」
《うーん。まぁそんなこったろうと思ってたけどな。マイウスでちょっと頭を冷やせば、そのうちおまえに連絡する気になると踏んでたんだが》
「あのとき、アスランを追いかけてマイウスまで行こうとした俺に同じことを言ったよな、ミゲル。信じた俺が馬鹿だった」

半年くらい辛抱したが、結局アイツからは何の音沙汰もなく。
その頃は既に仕事が軌道に乗っていて、俺も休む暇が無かった。何とか1日くらいはオフが取れるのだが、マイウスは日帰りで行くには遠すぎる。
……いや、半分は言い訳だ。会えないまま時間が開きすぎて、さすがの俺もアイツを説得できる自信が無くなっていた。

《俺も『ちゃんと話し合ってから行け』って言ったんだぜ? でもアイツ、全然聞かないし》
「貴様は昔からアスランを甘やかし過ぎなんだ。……だいたい、いいのか。アイツを野放しにしておいて」
《まぁ、別に行方不明ってわけじゃねーし、定期連絡は入れてるし。どうせ卒業したらアイツも自由にはできないから、今のうち伸び伸び好きなことをさせてやりたいしな》

……アスランがセントラルに戻っていることも知らなかったくせに、よく言う。

「その定期連絡ってのはメールでやり取りしてるのか」
《ああ。アイツ幾ら言ってもケータイを携帯しねぇから、ちょっと不便だけど。アドレスは変えてないぜ?》

最初のころ何度かメールを送ったが、返事は一度も返ってこなかった。
いま送っても結果は同じだろう。そもそもアイツが俺のメールを読むかどうかも怪しい。__それに。

「前もって知らせると、また逃げられるかもしれないからな。どうせアイツのことだから、学生らしく遊び惚けもせず大学に入り浸ってるに決まってる。俺が直接出向いて掴まえるのがいちばん手っ取り早くて確実だ」
《おい、よく考えろよ、イザーク。芸能人のおまえが、アスランの大学に押し掛けるのはマズイんじゃないのか?》
「……それは何とかする」
《早まるなって。おまえがアスランと話し合いたいって言うなら、そうすりゃいいけど、アイツにも心の準備くらいさせてやれ》
「……」
《おまえがアイツに怒るのはもっともだ。だけど、おまえにだって非が無かったわけじゃねーだろ》

電話越しのミゲルの声が、わずかに冷たくなる。

「__それはわかってる!」
《だったら、今は何もするな。このことをわざわざ知らせたのは、別ルートから情報が入った結果おまえが考えなしの行動に出たら、俺が困るからだ》

そんなことだろうと思っていた。
俺はアスランの意思決定に大きな影響力を持つミゲルが邪魔だったが、ミゲルにとっては、侵略者は俺の方なのだ。
彼が”ソランジュ”に加わったのも、アスランを側で守るために過ぎなかった。
俺たちが付き合い出してからも、ずっとコイツは、庇護という名目でアスランをコントロール下に置いていた。

《近々様子を見にいこうと思ってたから、おまえに連絡するように何とか説得してみるよ。それでいいだろ?》

俺よりもずっと昔から、アスランを知っている男。
アスランと俺がよりを戻すことを、ミゲルが望んでいるとは思えなかった。
けれど、彼が誰よりもアスランの幸せを第一に考え、そのために行動し、どんな犠牲も厭わない人間だということも、俺は知っている。それが、俺とミゲルとの決定的な差だと言うことも。

__俺は、アスランを他の誰にも渡したくないから。

「……頼む、ミゲル」

焦る気持ちを抑えて、彼に託すよりほかに無かった。



10 -Athrun-

作業が一区切りついて、気がつくと研究所に残っているのは俺だけだった。
時計の針は21時を回っている。
……そういえば小一時間ほど前に、教授が声をかけていった気がするような、しないような。

(俺も帰るか)

テーブルの周りを片付け、電気を消して、外に出た。
時間が時間なので、キャンパスには人影がない。ぽつぽつと立つ外灯の明かりの中で、白い、雪のようなものがチラチラ舞っていた。桜の花びらがひとひら、肩に落ちてくる。
暦は4月の下旬に差し掛かって、構内に植わった桜は散り出していた。故郷のディセンベルでは、蕾が膨らみ出した頃だろう。マイウスはもっと北だから、4月になっても雪が降った。開花は、5月中旬だ。

ピアノの音が聞こえて、立ち止った。

研究所の隣の、大学記念館のほうからだった。確か、時々特別授業などに一般公開される講堂に、年季の入ったグランドピアノがあったはずだが。

(こんな時間に、誰だろう)

ボロン、ポロン、と、たどたどしく奏でられるメロディに、聴き覚えがあった。

(……まさか)



***



「やっぱりおまえか……アウル」

窓からの明かりだけが頼りの、暗い講堂。
ピアノの前に立っていたのは、シンと同い年の少年だ。声をかけると、リスを思わせる瞳をくるりとさせて、俺に笑いかけた。

「案外ちゃんと調律して貰ってるね、コイツ」
「それは百年前のピアノだそうだぞ。……何してるんだ、こんなところで」
「アスランを待ってたに決まってんじゃん? 研究所のインターホン、誰も出ないし」
「いつ来たんだ?」
「30分くらい前」
「悪い……気づかなかった」
「明かりは点いてるし、そんなことだろうと思ってさ。いい加減ケータイ持とうよ、アスラン」

俺はピアノに近づき、黄ばんだ鍵盤にカバーをかけた。

「夕飯はもう食べたのか?」
「奢ってくれんの?」
「……しょうがないな」
「やった! 肉!」
「今日は一人か?」
「うん。……あ、そーだ。こないだ、スティングが偶然ミゲルにあったらしいぜ」
「え!?」

ミゲルって言ったか今!?
ギョッとしてピアノの蓋から手を離したら、蓋が落ちる音が講堂に響き渡った。
一瞬の間があって、アウルが爆笑する。

「ぶはっ、予想以上のリアクション、ウケるー!」
「……彼に会ったのか? スティングが」
「戻って来たこと黙ってたの? ミゲル、相当怒ってたってよ。まじ怖いよねーあの人、さすが大手民間軍事会社の社長の息子。スティングから聞いた様子じゃあ、アスラン、コンクリ詰めにされて海に沈められちゃうかもと思って、その前に顔見に来た」

アウルは相変わらず冗談がきつい。

「……黙ってたわけじゃない。急に移動が決まって、引っ越しとかでバタバタしてたんだ。そろそろ連絡しないとなーと思ってたところだ」
「言い訳は本人にどうぞ? スティング、アスランの住所ゲロっちゃったらしいから」
「は?」

何してくれてんだ、あのバカ。

「しばらくラボで寝るか……」
「あ、勿論ここにいることもバレてるよ」
「……」
「詰んだね、アスラン」
ご愁傷さま、とアウルは笑った。「最後の晩餐はステーキにしようよ」
「……最後とか言うな。不吉だ」

とりあえず、この捻くれ少年に何か食べさせながら対策を練ろう。
そう思いながら踵を返したが、アウルは俺の腕を引き止めた。

「ねぇ、せっかくだからさ、何か一曲弾いてよ」
「……ええ? ピアノなら家で幾らでも弾いてやるぞ」

アウルは俺が閉じたピアノの蓋をまた開ける。

「このオンボロピアノで、あの"ファントムペイン"のAshがロックを弾くってのがエモいんだって。最近全然撮れてなかったし、ちょうどいいや」
「……勝手にアップするなって言ってるのに」
「けっこう再生回数いいんだぜ? ”ファントムペイン”のページにリンク貼ったから」
「そういう問題じゃなくて……"ファントム"の活動は匿名って条件だろ。素性がバレる確率が高くなるようなことは…」
「大丈夫だって、手元だけで顔は映してないから」

人の話を聞かないアウルは、既にスマホを取り出している。
俺はピアノを見た。……そう言えば最近、忙しくて全く弾いてない。

「こんな時間に。見つかったら怒られるぞ」
「だから、一曲だけ」

言いくるめられた格好で椅子に座った。最初は気が進まなかったが、鍵盤に指を置くと、自ずと気持ちは高揚する。
__ああ、やっぱり好きなんだな。この感触が。

思ったよりも鍵盤のタッチは軽く、心の赴くままに弾き出した。
ジャズかよ、とアウルは意外そうに言ったが、これはもはやロックだろう。リクエストどおり『最高にエモい』ナンバーを聴かせようじゃないか。
月明かりだけが観客のステージで弾き語るには、相応しい曲だ。

"__Sinnerman where you gonna run to?
Where you gonna run to?
All along dem day"

ひとは、どうして音楽を作ったり歌を歌ったりするんだろう。
何のために……?

"I run to the rock, please hide me
I run to the rock, please hide me
But the rock cried out, I can't hide you
The rock cried out, I ain't gonna hide you"

音楽は記憶の再生装置だ。聴けばいつでも、昔それを一緒に聴いた人のことを思い出す。

小さい頃、母からピアノを教わった。
クラシックからロックやポップスまで、ふたり並んで色んな曲を弾いて遊んだ。
ピアノのジュニアコンクールにも出たが、プロになりたいと考えたことはない。同世代に、100年に1人と言われた神童がいたせいだろう。
10歳のとき母が亡くなり、ピアノを弾かなくなった。俺の知的好奇心は電子機器やプログラミングに移ったが、祖父の遺品のレコードを全部聴いたり、ガレージで見つけた古いシンセサイザーを弄ったりと、音楽への関心は抱き続けた。

"I said, rock, what's the matter with you rock?
Don't you see I need you, rock?"

母の死後しばらくして、ミゲルが連れてこられた。
ミゲルは、父の会社や家の警備を任されている会社の社長の息子だった。歳は2つ上で、俺たちの父親がそうであるように、将来は俺の手足となって働くために、俺の"話し相手"に選ばれた。それ以来、実の兄以上に俺の面倒を見てくれている。俺は未だに彼には頭が上がらない。

"So I run to the river, it was bleedin'
I run to the sea, it was boilin'
All along dem day'"

俺は15歳まで家庭教育を受けていたので、学校に行ったことがなかった。母との死別と、父の厳しい教育方針の結果、俺は『物わかりの良すぎる』子どもに育ったらしい。
そこで、ミゲルは荒療治を思いついた。
彼は俺を高校にやるべきだと父に進言し、突然学校という特殊な集団に放り込まれた俺は、右も左もわからず、文字通り途方に暮れてしまった。
とにかくひとりになれる場所を求めて、昼休みになると賑やかな教室を抜け出し、音楽室でまたピアノを弾くようになった。

"So I run to the Load, please hide me Load
Don't you see me prayin?
Don't you see me down here prayin?'"

ある日ピアノを弾いていると、クラスメイトのひとりが横に座って一緒に即興演奏を始めた。
それがキラ__のちの"ソランジュ"の天才ギタリストKiraだった。
キラは俺に、自分たちのバンドでキーボードを弾かないかと言った。
クラスでも人気者だったキラが、何故俺みたいな生徒に目をつけたのかはわからない。俺は最初、彼のことを邪険に扱ったが、キラは諦めなかった。
"ソランジュ"のライブに半ば無理矢理連れて行かれ__ステージでベースを握るイザークを見た。

"But the Load said, go to the devil
He said, go to the devil"

キラの交友関係に引っ張り込まれてからというもの、高校生活は一変した。
自分には一生縁が無いと思っていた世界は、何もかもが新鮮で、刺激に満ちていた。
ミゲルはこれも社会勉強だと思ったのか、俺が羽目を外しすぎないように目を配りつつ、彼は彼で楽しんでいたようだ。
キラの友人にはいわゆる不良もいたが、根は純粋な気のいい連中で、俺は彼らから色んなことを教わった。タバコの味も、酒の飲み方も、女の子とのキスの仕方も。
学校を堂々とサボって昼間から遊んだり、夜の浜辺に繰り出して朝まで騒いだりもした。

"So I ran to the devil, he was waitin'
Ran to the devil, he was waitin'

I cried, Power!
Power! "

"Sinnerman"は、イザークと初めてふたりで話した夜、彼がピアノで弾いていた曲だ。
海沿いの倉庫街の一画は、若い男女の溜まり場になっていた。
悪い噂が絶えない場所だったので俺はミゲルに出入りを禁じられていたが、一度キラについて行ったことがある。そこにイザークも来ていたのだった。
彼はひとりで歌っていた。
紫煙の立ち込める倉庫にたむろしていた連中のうち、半分は酔っぱらって、今にも海に飛び込みそうな騒ぎ様だったし、あとの半分は薬物の回った体を横たえ、ピアノを奏でるイザークを虚ろに眺めていた。
イザークのほうも、誰かに聴かせるために演奏していたわけではなかった。彼はただ、そうしたいから歌っていた。

"Power!
Bring down!
Power! "

ところどころ音の狂ったアップライトピアノを弾きこなし、イザークは往年の名曲を熱く歌い上げた。
あの情景が、今でも頭に焼きついている。

俺は、彼はいつも何を考えているんだろうと疑問に思っていた。彼が属していた場所では、皆が眠たげな目をして、いっときの快楽に耽っていたが、彼の青い目だけは冷悧な光を失うことがなかったから。
見かけるたびに違う女性を連れ、クセの強い煙草を吸い__周囲と同じように振る舞ってはいても、イザークは常に、まったく別のことを考えているように見えた。野良犬の中に野性の狼が一頭紛れ込んでいれば、誰だってすぐにわかるだろう。それくらい、彼の存在ははっきりと異質だった。

きっかけはあの夜、俺が妙なクスリの入った飲み物を知らずに口にしかけたのを、イザークが止めたこと。
一度話してみると、彼は見かけよりずっと親しみやすくて、不思議と会話が尽きなかった。

じきに、俺は”ソランジュ”で演奏するようになった。
ミーアの歌は圧巻で、才能豊かな仲間と臨むライブは、最高に楽しかった。
俺はデジタルの編曲やミキシングの方法をイザークに教え、イザークは俺にギターを教えた。ちょっと弾けるようになってくると、俺は自分のギターが欲しくなって、生まれて初めてアルバイトをした。

ミゲルには感謝している。それからキラにも。アイツらが手を引っ張ってくれたおかげで、俺は充実した青春時代を送ることができた。
ひとりの人間に、本気で恋をしていた。

イザークに好きだと言われた日が、たぶん人生でいちばん幸せだった。



11 -Shin-

バイトが終わって、ダメ元で寄ってみた研究所は、照明が消えて静まり返っていた。
諦めて帰ろうとしたとき、隣の建物から聞こえてきた、微かなピアノの音色。

辺りに人影がないことを確認して、正面の階段を上る。
その古い建物の入り口には、鍵がかかっていなかった。
中を覗いてみると、廊下の明かりは非常灯だけだったが、確かに誰かが歌っている。

(この声……)

足を踏み入れると、木製の床がギィ、と鳴った。
なるべく足音を忍ばせて歩き、奥の大きな扉をそっと、細く開けてみる。

So I ran to the Load, Load hide me
(主よ、私を匿ってください)
Please hide me, please help me
(どうか救いたまえ、どうか)

暗くて広い講堂の片隅に置かれた、グランドピアノ。
その前に座っていたのは、やはりアスランだった。

He said, child where were you when you oughta been prayin'?
(主は仰った、おまえは祈るべき時に何処にいたのか)
Sinnerman, you oughta be prayin'
(罪びとよ、おまえは祈るべきだったのだ)

少し気だるく、けれどあたたかみを感じる、ユニセックスなハスキーヴォイス。
細長い指が、鍵盤の上で自在に踊る。
ああ、でも、俺は知ってたはずじゃないか。彼の美しい手のかたちは、楽器を弾く人間のそれだって。

__『あんたも、音楽やったりするの?』

あのとき、彼はどんな顔をしたんだっけ……。

出会ってからひと月の間に、俺はどれだけアスランが自分の話をするのを聴いたんだろう。
俺が彼について知ってることなんて、ほとんど無い。俺がいつも一方的に慕って、自分のことを喋るだけで。
どこに住んでいるのかも。家族構成も。あんなに上手にピアノを弾き、艶やかにロックを歌うことも。
何も、知らない。その事実を今さら突きつけられて、愕然とした。

彼はいつも微笑んで、俺のくだらない話を聞いてくれる。
ただ時おり、向かい合っている彼の心が、ここに無いと感じるときがあって。
海の上を漂うカモメみたいに、ふっと遠のく視線が、気に懸かっていなかったわけじゃない。
彼には何か大きな秘密がある。俺は本当は、それが寂しかったのだ。

アスランは演奏を終えても、しばらくピアノの前に居た。
何となく、俺の存在を知らせるのをためらううちに、若い男がひとり、ピアノの陰から姿を見せて、彼と話し始める。
俺はそのときまで、室内に別の人間がいたことにすら気づかなかった。

(……学生には見えないけど、誰だろう?)

俺の知らないところで、アスランにはアスランの人生があって。
俺の知らない人に、アスランが笑顔を見せる。
そんな当たり前のことで__

(……どうして、こんなに)

胸が締めつけられて、痛いんだろう。