21 -Athrun-

『アスラン』

いつからだろうか、海の音を聞くと、イザークを思い出すようになった。



北部の海は冷たく、夏でも波が荒いから、マリンスポーツには余り人気がない。
それでもディセンベルの人々にとって、海は日常に寄り添う景色であり音であり、匂いだった。
俺がイザークと初めて言葉を交わした旧倉庫街も、スタジオ帰りにふたりで回り道して歩いた国道も、イザークが間借りしていたガレージも、海の側だった。

現在は内陸のアッパータウンを生活拠点にしているので普段見ることはないが、セントラル・シティにも海はある。
都心部と目される商業地区はアプリリウス湾の海の片側に位置し、セントラル駅を境として山側をアッパータウン、海側をダウンタウンと呼んだ。
さらに山手には大学が集まってひとつの街を作り、一方、ダウンタウンを抜けた湾岸沿いには、豪華客船が立ち寄るウォーターフロントや、広大な面積を有する王立公園があった。

かつて俺がイザークと暮らしたアパートメントは、このベイサイドと呼ばれる地区に建っていた。

北部のいちばん大きな街で生まれ育ったとはいえ、南部の首都を初めて目にしたときは、まるで異国の街に来てしまった気がしたものだ。
どこでもいいから、海の近くに住みたかった。
俺たちが見つけた古いアパートメントは、エレベーターの扉は手動だし、日に焼けた壁_イザークは『アンダルシアの場末の酒場みたいな下品な色』と言った_は全部塗り替える必要があったけれど、7階の窓から湾の海と対岸の街が見える、眺めのいい物件だった。
近くのヨットハーバーや王立公園は、ジョギングやピクニック好きの都会っ子の憩いの場となっていた。(夜はひと気が無いぶん少し物騒だが、1階のエントランスはオートロックだったので、ミゲルも反対はしなかった。)

アパートメントの1階にはレストランがあり、フランス北西部の郷土料理を提供していた。
あのころ俺たちは、週3回はその店でガレットを食べていた。
上京と同時にインディーズの活動も始まって、けっこう忙しい毎日だったが、それでも月に2〜3度は、必ずふたりだけで過ごす時間を作った。
晴れた休日の朝には、公園を一周走ってからシャワーを浴び、1階のテラスで遅い朝食をとるのがお決まりのパターンになった。
バンドの話は一切しないのがルールだった。

空腹が満たされたら出かけることもあったが、大抵はふたりで部屋に籠って、明るいうちからたくさんセックスをした。
波の音の止まない部屋で、疲れて眠り込むまで。



『アスラン』

半分開いた海辺の窓。昼下がりの寝室。
白いレースカーテンが風を孕んで、ペールブルーの壁に陽だまりが揺れる。
イザークが好んでつけるオードトワレのラストノートは、サンダルウッドとムスクの、優雅で官能的な香り__。
透き通った銀の髪を体じゅうに浴びながら、俺は息継ぎを忘れて、何度も溺れかけた。

セントラルへ来てから、イザークは俺を追い詰めるように抱くことが多くなった。
でもそれはきっと、俺のほうが彼を焦らせ、追い詰めているせいだった。

『アスラン? ……生きてるか…?』

いっそひとおもいに殺してくれればいいのに、イザークはいつも肝心なところで我に返って、俺の息の根を止めてくれなかった。
思考は奈落に引っ張られ、今にも墜ちてゆきそうなそうなまま、からだは再び快楽を追う。

このままでは良くないことは、わかっていた。
俺は単にイザークよりも隠すのがうまいだけで、どちらも独占欲が異常に強く、一度執着したものに対しては諦めが悪い。
割りきった大人の付き合いなど、俺たちには不可能だった。
皆の前で健全な関係を保とうと努力すればするほど、ベッドの上では最後の理性の綱が焼き切れるギリギリの行為を繰り返した。

イザークが先に殺らないなら俺のほうが殺してしまうかもしれない。
そう言ったら、イザークは笑って、そんなことをしなくてもいつか一緒に死んでやると答えた。



マイウスからセントラルに戻って、一度も海を見に行かないのは、逢いたくなるのが怖いからだ。
もしアイツに求められたら、俺は拒めない。
俺たちを取りまく状況は何も変わらないのに。
その場しのぎの快楽で繋いで、またじわじわとお互いの喉を絞めていくだろう。

__それでも構わないと思ってしまいそうな自分が怖くて、ここから動けない。



22 -Athrun-

俺が"ソランジュ"に加わった高1の夏休みに、イザークは家を出て、バイト先の自動車整備工場の、ガレージの2階で暮らし始めた。
退っ引きならない事情があったのだろうが、俺は純粋に彼の自立精神と行動力に尊敬を抱いた。
イザークはたぶん、自分の人生の主導権を他人に明け渡すくらいなら死んだほうがマシだと思っているのだ。
彼は生活費をアルバイト(&チェスの賭け試合やその他諸々)で稼ぎつつ、秀才の集まる高校でトップレベルの成績を維持していた(単位はギリギリだったが)。
度を超した完璧主義はときにメンバーの技量やスケジュール管理にまで及んだので、今まで"ソランジュ"を辞めていった人数の多さには早々に納得した。
でもそれは、ミーアが高校を卒業したらすぐにプロデビューするためにバンドが必ず踏んでいかなければいけないステップを、イザークが逆算して、綿密に計画を立てた結果だ。
必要以上に敵を作る毒舌や、かっとなりやすい気質は別として、俺は彼の妥協を許さない姿勢を好ましく思った。
イザークに認められた"ソランジュ"の一員であることは誇りだったし、それまでは何でも一人でやってきたから、共同作業で作品を完成させていく課程が楽しかった。
俺はイザークが求める表現やイメージをすぐに理解できたし、その上をいく修正をしようと努力もできた。
自惚れを恐れずに言えば、俺とミゲルというパズルのピースが揃ったことで、イザークの"ソランジュ・プロジェクト"は大きく進展したのだ。

同年の秋ごろからイザークの『暴虐ぶり』(キラ曰く)が目に見えて落ち着いたのは、てっきりその効果の現れだと思っていたが。

「はぁ? ……バカか、そんなのおまえに惚れてたからに決まってるだろう」
と、ある日イザークに一蹴された。

外は大雪だというのに、オイルヒーターの調子が悪かった。
日が落ちて暗くなるにつれて気温はますます下がり、俺たちは事務所の隅で埃を被っていた石油ストーブを失敬して、ガレージの2階に運んだ。
イザークがライターを探すあいだに俺はストーブの手入れをしていたが、『惚れてた』という言葉に思わず手を止めた。

と言うのも、例の国道での告白から1ヶ月が経とうとしていたが、イザークがそういうことを口にしたのはあれ以来初めてだったのだ。
ときどき思い出したようにキスをするだけで、それ以上のことは全く何もしてこないし。
話が違う、と俺は内心首を捻っていたのである。

ほんの少し期待して振り返ったら、イザークは簡易ベッドに寝転がって、バンドの追っかけや高校の女の子たちから貰ったカードに目を通すのに忙しそうだった。

「……ライターは?」
「テーブルの上」

いつの間にか、彼が愛用するライターがローテーブルの端に乗せてある。
とりあえずこの寒さを何とかするのが先だったので、俺は黙ってそれを取り上げた。
芯は少し湿気っていたが、二度目にはちゃんと火がついた。上蓋を戻してダイヤルで火の大きさを調整していたら、イザークが顔をあげて訊いた。

「使えそうか?」
「何とか。少し換気したほうがいいかも」
「締め切ったって隙間風が入ってくるんだ、大丈夫だろ。__ああ、ついでに、そこのケトルをかけといてくれ」
「……いいとも。ついでだから、熱いセイロンティーも淹れてあげようか?」
「つーか、そろそろ帰れよ。外に待たせてるミゲルの手下が、雪に埋もれてるんじゃないか?」

俺は馬鹿丁寧な動作でストーブの上にケトルを置いてから、イザークにライターを手渡した。

「いつも持ち歩いてるくせに、何で今日に限って無くなるんだよ。これ、お気に入りなんだろ」
イザークは受け取ったライターを再びテーブルに放った。「最近禁煙してるから」
「禁煙!?」
「タバコなんて贅沢品だし、おまえは全く吸わないし、いい機会だと思っただけだ」
「……でも、ニコチンはおまえの精神安定剤じゃないか。俺は全然気にしないぞ、ミゲルで慣れてるし」
「だから、別に要らなくなったんだ。やっと家を出れたことだし、今はおまえもいるしな」

口では調子の良いことを言いつつ、イザークは難しい顔でカードの束を仕分けている。
俺は手持ち無沙汰になって、イザークが伸ばしている脚の側に腰かけた。

「……イザーク、今日が何の日か知ってる?」
「さあ、ハートの大盤振る舞いの日か?」
「聖バレンタインの日だよ」
「だろうな。何でもない日にまでこんなに愛の言葉が乱れとんだカードを貰ってたら堪ったもんじゃない」
「うん、『受けた恩は必ず返す』がモットーのおまえにとっては迷惑きわまりない風習だよな。そんな忙しいときに悪いんだけど、俺、ミゲルに『どうせ今日はイザークのとこに泊まるんだろ』って言われてて、だから迎えも来ないんだ」

ありのままに打ち明けたら、イザークは今日初めてまともに俺の顔を見た。

「……何だと?」
「だって俺たち、いちおう付き合ってることになってるし。バレンタインデーは恋人と一緒に過ごす日だろう?」
俺はベッドに散らばったカードを一枚手にとって眺めた。「そういえば、母の故郷のユニウスでは、バレンタインデーには恋人にチョコレートを贈るんだよ。母方の祖父がワイナリーを持ってて、昔、遊びに行ったとき、地元の女の子がハート型のチョコレートをくれて…」
「おい」
イザークは起き上がってきて、俺の手からカードを取り上げた。「『いちおう付き合ってることになってる』とは、どういう意味だ?」
「俺、あれから考えたんだけどね」

降り積む雪のせいで静かな夜だったが、冬の海の波音は聞こえた。
そう言えば、今日は14日だから、大潮が近いのだ。
室内は徐々に暖まり、ストーブにかけたケトルが細い湯気を立てていた。

「イザークが俺を恋人に選んだのは、ミーアを自立させるためでもあるんだろう?  俺はキラと違って、元々ミーアよりもおまえ寄りの立場だったし、役に立てるならと思って、あのときは軽い気持ちでOKしたけど」
「……無かったことにしたいとか、そういう話か?」

向かい合うイザークは不安げな顔をしていた。
俺の言葉はまた、ちょっと回りくどかったらしい。

「いや、むしろ仕切り直したいっていう話だ。ミゲルは、俺が流されてるだけじゃないのかって心配するけど、確かにおまえに告白されたときはパニックになってたから、色々変なこと言ったなーと」

俺はいつも頭で考えすぎて、肝心なことを伝え損ねるけど、これだけは言っておきたい。

「笑わないで聴いてくれるかな。__初めて見たときから、きみは俺の憧れの存在だった」

イザークは笑わなかったが、たっぷり7秒間、静止したまま俺の顔を見つめた。

イザークの考えがまとまるまであと3秒待ってから、俺は訊いた。「そんなに驚く?」
「……ああ。おまえがいつも不思議そーに俺の生態を観察してたのは知ってたが……あれが憧れの眼差しだとは思わなかったぞ」
「生態観察……ああ、確かにそれも込みだ」
「込みなのかよ」
「だっておまえは俺に無いものをいっぱい持ってるから。野心家だし、自信も人一倍だし……おまえのそういう、ギラギラしたところがカッコいいなって、ずっと思ってたよ」
「『カッコいい』のか、それは?」
イザークは素直に喜べない様子だった。「俺は……貴様には、最初から驚かされてばかりだ。この北部じゃ『怪物』って呼ばれてるパトリック・ザラの息子で、ミゲルがタイマンで勝てた試しがない男が、実際会ってみたら小柄でボーッとしたヤツで、しかも顔がめちゃくちゃ好みだった」
「……小柄って、おまえよりちょっと背が低いだけじゃないか」
「まぁしかし、隙だらけに見えて、あまり笑わないし、何を考えてるかわからんヤツだとは思ったな。おまえは頭の出来が違うから、どこにいても自分だけの世界を生きてる感じだし、周りの連中がさぞかしバカで滑稽に見えるんだろ。……本当にムカつくヤツだ」
「そんなことないけど……言いたいことはわかるよ。俺は初対面で嫌われやすいんだ。特に同じ年頃の同性には」
「それは嫌悪というより嫉妬だな。……ついでに白状すると、俺もおまえに嫉妬している」
「それって、俺に絶対に勝てないって言っていたことと関係あるのか?」
「あると言えば、あるかもな」

イザークはふいに俺の腕を引き寄せてキスした。
ベッドの上に散らばったカードが数枚、下敷きになったが、彼は俺のことしか見ていなかった。

「先に好きになったのが俺だという事実は一生変わらない。__おまえは他人に興味がないぶん博愛主義的だが、俺は違うしな。俺のは全部おまえにくれてやりたいし、おまえのも全部欲しい。……きっと俺は、人としての色んな情の調節機能が狂ってるんだ。そういう血筋だから」
「……え? ……ごめん、意味がよくわからない」
「俺みたいに面倒な人間をあまり本気にさせるなってことだ。……俺が考えてることを全部知ったら、おまえだって絶対幻滅する」

間近に見るイザークの青い瞳がきれいだった。

「……えっと……俺も男だから、この状況でおまえが考えることに想像はつくし、興味もあるぞ?」
「それも勿論あるが、もっと重いことだ。俺の……家のこととか、俺が中学のとき…」
言い淀んだイザークに代わって俺は言った。「入学した翌日に絡んできた3年の不良集団を半殺しにして、卒業まで恐怖政治を敷いたとか、体育倉庫で女性教員とヤってたとか、急にキレて教室の窓ガラスを全部割ったとか、そういうこと?」
「……体育倉庫の女は教員じゃないぞ。確かラクロス部のOBだった」
「たとえきみが校長先生とデキてたって、そんなのは可愛いものだよ。俺はその歳の頃、父の会社のシステムのクラッキングに成功して、軍関係者の個人アドレスに証拠を送りつけたことがある」
「……事案だな」

どうして政府はこんなアブナイ奴を野放しにしているんだ、というイザークの皮肉は聞き流した。

「俺はおまえよりずっと人相の悪い訳ありだらけの連中に囲まれて育ったから、滅多なことでは動じないんだ。喧嘩もたぶんおまえより強いし、安心して好きなだけキレるといいさ」
「……誰が好きでキレるか」
イザークは俺をにらみつけた。「真面目な話、俺と付き合うって言ったことを撤回する気は無いんだな?」
「無い。1年先のことは何も約束できないけど、おまえがそれでいいなら…」
いい、とイザークはきっぱり答えたが、やや思い直したようにこう付け足した。「1年後にもそう言えるかどうか約束はしないが」
「やってみなきゃ何もわからないってことだな。じゃあ、この実験の手始めに、今夜は朝までここにいてもいいか?」
「というより、帰らないでくれ。__正直、俺はそろそろ限界だ」

寒い、とイザークは呟いて、俺を抱きしめた。



***



この1ヵ月で発見したこと。
イザークにキスをされ、からだを触られるのは少しも嫌じゃない。
腕を上げて俺も彼に触れてみると、服の下にしなやかな男のからだを感じて、同じ『性』を強く意識した。
__同じ……なのに、からだがこんなに熱くなるのは、どこの調節機能がおかしいのだろう__?
目と目を見交わせば、お互いに欲情しているのがわかる。
服を脱がせ合い、性急に剥き出しの肌を重ねた。

「アスラン」

告白されたときも思ったが、イザークは俺より何百倍も経験豊富なくせに、余裕なんて欠片も見せなかった。
さながら1ヵ月ぶんの飢餓を満たす大狼のように肌をむさぼられ、俺は捕食者の爪に押さえつけられた羊の気分を味わった。
けれど沸き上がるのは恐怖ではなく__。

「はあっ、あ…っイザーク…もう」
「いいから……イけよ」

俺を先に逝かせて汚れた長い指が、後ろを探り当て、さらなる侵食を試みる。
どうしたらいいかわからなくて、ただ目をぎゅっと閉じ、自分が急に叫び出したりしないことを祈っていた。

こんなときに気づく__自分には縁遠いと思っていた虚栄心に。
憧れていたからこそ、俺はいつもこの男より優位に立っていたくて、自分の善い面だけを見せるように振る舞ってきたのだ。
__だけどこれ以上は、とても俺を保てない。

アスラン、と抑えた声で名前を呼ばれる。
入っていいかと問うイザークに、殆んど意地だけで頷いた。
ゴムを被せた硬い性器を半ば強引に差し込まれてからは、俺にとってはひたすら耐える時間が続いた。

ふたりの荒い呼吸が潮騒に聞こえる。
満潮の夜の海に否応なく引きずり込まれるように、上も下もなく、抗えない力に翻弄された。

窮屈そうに中を往き来するものが、信じられないほど熱くて、必死に受け入れていたら、イザークはほどなく射精した。



「アスラン。大丈夫か?」

1度目が終わってひと息つく間もなく、2度目が始まって、それも終わってから、イザークはようやく俺をいたわることを思い出した。

「待てなくて悪かった。血は出てないが……痛むんだろ」
「……すごく」
俺は渋々認めた。
実際、途中から余計なことを考え始めてしまったせいで、必要以上に消耗していた。「イザークは……今の、気持ちよかったのか?」
「すごく」
イザークは微笑み、俺の首筋にキスをした。「コツがわかればもっとよくなる。……そんな顔するな、慣れたら後ろでもちゃんと感じるようになるらしいぞ」
「コツね……」

そう言われても、今すぐに慣れるまで頑張ろうという気にはならなかった。
体は痛いし、疲れたし、自分ばかり2度も楽しんだイザークにはかなりムッとしたが、一方で彼を満足させたことに安心もした。

「……本当に、物好きだな」
「何だ?」
「何でもない」

俺はいつもどおり素っ気なく答えた。
イザークはそれを見て、いつもどおりの不機嫌顔になった。
あんなことをしたばかりなのに、もう絶対まともに顔なんか見れないと思ったのに、何も変わらない自分たちが可笑しかった。

「何を笑ってる?」
「いや……おまえはずっとそのままでいてくれたらいいなと思って」
「……貴様は少しくらい、人とまともなコミュニケーションをとる努力をしろ」



16歳のバレンタインデーの夜。
他人に贈られた愛の言葉が氾濫するベッドの上で、朝までイザークの腕の中にいた。
何度も彼の手で昇り詰め、何度も彼の熱を受け止めた。

明け方、俺が寝ていると思ったのか、イザークは俺を後ろから抱きしめて、低く、満ち足りた声で呟いた。

「……これで俺のものだ」

俺は眠ったふりをしていた。
まるでガラスでできたナイフのような男だと思った。



__本当は知っていた。
イザークが、山の手に建つ大きな家を捨てるように出てきたわけを。

ジュール家は元々貴族で、『現代において最も成功した伯爵家』と言われていた。
マティウス州に広大な土地と城を持つ旧家でありながら、MMI社に次いで国内第2位の重工メーカーを経営する実業家の一族でもあったからだ。
同じ上流階級社会に属していれば、ジュール家の人々の噂は幾らでも聞こえてきた。
現伯爵、つまりイザークの父親の女性スキャンダルは社交界で殊に有名だったし、私立学校でもライブハウスでも、その息子であるイザークの名前はよく話題にのぼった。

だから、ミゲルに聴かなくても、大まかな事情は知っていた。
いずれイザークが爵位を継ぐこと。
彼の父親が愛人を家に入れていること。
病気の母親の余命が、もう長くはないこと。
それから、彼が中学3年のとき、自宅の放火騒ぎで警察に事情を聴かれたこと。

俺たちが結ばれた翌年の7月、彼の母親が亡くなった。
その直前の春から夏にかけて、イザークは衝動的に物を壊したり、俺を犯すように抱いたりした。
俺は薄々、彼を動揺させていたのが母親の病状自体ではないことに勘づいていた。その気になればいつでもイザークを止めることができたが、大抵は逆らわず、何も訊かなかった。
俺を犯すことでイザークの気が済むなら、幾らでもそうすればいいと思った。

イザークには、俺のように対等で、ちょっとやそっとでは傷つけられない存在が必要だったから。

子どもの頃、キャンベル親子が隣に越してこなければ、イザークは俺に出会う前に道を踏み外していたかもしれない。
彼にとっては、ミーアとその父親こそが本当の家族だった。
ミーアの天使の歌声は、居場所のない家や辛い現実からいっときでもイザークを解放する神殿だった。
けれど人は誰しも、無垢な子どものままではいられない。
俺たちは生身の人間だから。
血の通った肉体を持ち、感情を持っているから。
美しい虚構を追い求める一方で、醜い欲望や激しい怒りをさらけ出せる相手が必要なのだと思う。



ベイサイドのあの部屋を出ていくとき、イザークに言ったことは、心にもない出まかせなどではなかった。

__『俺じゃなくてもおまえは大丈夫だよ』

あれは願いだった。
今度こそ、彼の寂しさを埋められる誰かが現れて、寒い夜には彼の心と体を温めてあげて欲しい。
身勝手な考えだけれど、俺のように彼を置いて行ったりしない人が。

そうじゃないと俺はいつまで経っても、夜が来るたびにアイツのことが気懸かりで、深く眠れないから。